村井忠夫のマンション管理ブログ

村井忠夫のマンション管理ブログ
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 26】「相談」という名の情報が理解されていない不安はマンションでも例外ではない?

「相談」の本質は情報。道に迷った人に「行先を教える」程度の軽いイメージで考えるとこの言葉の重さが見えなくなる

 政治家や官僚が何かに対応しようとすると、その構想のどこかに必ず「相談」という言葉が出てくる。

 「相談」という言葉は、ほとんど説明抜きで使われることが普通だ。何しろ相談に乗れる人間さえ揃えれば、そんなに予算や費用をかけなくても対応できるのだから、どんなことに対応するときも簡単に具体化できる。

 「相談」は実現しやすくて誰にもわかりやすいところに最大のメリットがある。

 「相談」がそれほど何かにつけて当てにされるのは、「相談」に即効性のある情報提供という意味があるからだ。目前の問題にすぐ答えられるという期待がスピーディで有効な情報としての価値を生むのであって、「すぐわかる」情報として役立たなかったら「相談」はたちまち出番を失うことになる。

 こういう事情があるから、現場を熟知していることが前提になる「相談」は、エリートにはとても務まらない。理屈通りに進まない現実があるからこそ「相談」が頼りにされるのだ。

 こう考えると、「相談」という言葉の意味の見え方が前提次第でかなり違ってくることになる。

 ふつう「相談」は「わからない人に教えてあげる」という程度の単純きわまるイメージで使われることが多い。難しいことがあったら「わかっている人」に聞けばいいというのが「相談」なのだから。

 そんなイメージは行政の仕組みでも変わらないように見える。「相談」という言葉は「よく知っている人が必ずどこかにいるはずだ」という考え方が説明不要の感じで前提となっているわけだ。行政の仕組みや法律を考えると、そこがよくわかる。

 「マンション管理士」について定義したマンション管理適正化法の「・・・管理組合・・・等の相談に応じ」という言い方などもその典型例だろう。

 そうなれば、「相談」という言葉の意味をわざわざ改めて考えてみたりすることもない。なんでまた、そんなわかりきったことを・・ということになる。

「相談」という言葉では手に負えない重さのあることも・・。「相談」で見つからない答えをどこで探せばいいのか?

 でも、これは「相談」が《教える》という何でもない軽い意味に使われている場合のことだ。《聞かれたこと》がそんなに軽くなかったら、《教える》とか《答える》ことは途端に重みを増して手に負えなくなってくる。

 法律相談とか結婚相談などという言葉の存在が、その証拠ではないか。

 「相談」が無造作な軽い意味でやり取りされるのは、《聞かれること》も《教えること》も難しさのない軽い話だけに限られるのだ。

 こう考えていくと、手のつけようがないほど難しくはないが、確かめるのも面倒くさくいので聞いた方が手っ取り早いようなことほど、実は相談向きなのだということがわかってくる。一見して難しそうに見えても、それをいとわず答えの見つけ方を心得ている人があまり相談したりしないことを考えるとそこがよくわかる。

 あらためて確信するのだが、何となく無造作に使われる「相談」という言葉は《答えの見つからない問題などないはずだ》という考え方を前提としていると実感する。

 《どうしたらいいかわからなくて途方に暮れる難しい問題にぶつかっても、必ずその答えはどこかに存在している》ということになるわけだ。

 何と楽天的で自信過剰な、何と能天気な・・・。
                   ☆
 60年以上も昔、現在もまだ続く住宅と関わりのある人生をスタートしたのは、発足してやっと5年目の住宅金融公庫だった。そのとき何でも屋の感じで担当させられた仕事の一つに、相談への対応があった。

 「もはや戦後ではない」とこの頃どこかの偉い人が言っているらしいことは承知していたが、住宅に関する限り、まだまだ不足という圧倒的な言葉の生々しさの方が切実だった。相談にやってきた目の前の人と向かい合う自分とのやり取りがほとんど同じ言葉でできたのだから、ある意味で、相談者と相談対応担当者との感覚は同じだったといえる。

 このとき、「相談」という言葉を使う場面で「答えが見つからない問題がどれほど多いか」という苦しさを思い知った。どう答えればいいか見当がつかなくて「相談」という言葉を気軽に使えなくなったのは、その実感があったからである。

 そのとき以来、この経験が「相談」という言葉では答えが見つからない問題がどれほど多いかという感覚がこの言葉の使い方を用心深くさせてきた。

マンション管理では答えが見つからない問題が増え続けていることを忘れると「相談」は途端に現実離れする!

 この実感は、住宅について書いたり話したりする時にもう無意識のうちに習性化している。本やセミナーの話などでは答えが見つからないという状況の人ほど、ほかとは違う状況に直面している。だから、答えもその状況に中にあるはずだ。となれば、まず持ち込まれた問題に固有の状況をできる限り確かめなければならない。

 マンションをめぐる相談では、この実感がとりわけ強い。だから、相談者の住むところは、どこの、どんなマンションなのか、そのマンションに住んでいるのか、これから買うのか、もう住んでいるなら居住歴はどのくらいかなどということを、いちいち確かめる。そうしたことを確かめていくうちに、相手の方も《いま自分が答えを探している問題は何なのか》を再確認することになる。

 この過程に時間をかけながら問答を重ねていくうちに本当の答えは相談者自身が当事者として探すしかないことに気づくこともある。
                   ☆
 相談という言葉の奥行きの深さが、こういうときによくわかる。それは、相談に来た人だけがわかるのではなくて、相談に乗ろうとしているこちらにもまったく同じ感じのわかり方なのだ。相談は聞く方と答える方の共同作業とも言えるだろう。

 この実感は、現場感覚と裏表である。マンションの場合も、まったく同じだ。

 法律ではなくて、その法律の言葉を自分の口で語れる人間の感覚で決まる。その感覚は、自分のマンションで顔と名前の一致する人の数が多いほど確かになる。

| muraitadao | コラム | 04:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 26】マンションの管理を考え続けながら新聞とテレビにつきあってきた歳月の実感

自治会には入らないと豪語していた記者は言った。「そんなのに入って何のメリットがあるの」と

 先月読んだ「新聞社崩壊」(畑尾一知著/新潮社発行/2018年2月刊)という新書で次のような一節を目にした。今さら驚きもしなかったが、じわじわと浮かんできた嫌な感じがいつまでも頭の後ろ側にこびりついて離れず、さっぱりしない。

 気になるその部分には、こう書かれている。

《・・・筆者の知るある記者は、地域の自治会には絶対に入らないと豪語していた。「そんなのに入って何のメリットがあるの」と歯牙にもかけない風である。・・・》

 この後には次のような記述が続く。

《さらに「老人ホームで嫌われるのは、元記者と元学者」ということも聞いたことがある。理由は、似たようなものだろう。》

 これ以上の引用は、やめる。あえて一部分を引用するのは、マンションに住んでメディアのことを長年ずっと考え続けてきた実感に通じるところがあるからだ。 
                   ☆
 今も住んでいるマンションが竣工したのは、「広辞苑」が「マンション」という言葉をやっと掲載してから5年が過ぎたばかりのころだった。それも《(邸宅の意) ホテル風の高級アパートの称。》という珍妙無類の説明だった時代である。マンションはまだまだ新しい存在だった。

 そんな新しさに目を向けた新聞社や放送局の人たちが、このマンションには何人も住んでいた。親しくなって訪問しあった機会のある人もいた。

 でも、そうしたメディア系の人のほとんどは、管理組合なんて・・・という感じだった。ごくわずかな人が順番制の当番年に管理組合の役目を引き受けてくれることもあったが、普通そんなことは滅多になかった。

 冒頭に引用した個所は、そんなことをあらためて思い出させたのだ。

取材を受ける都度それとなく気をつける習慣ができた。取材で正確に説明しないとどんな記事を書かれるかわからないことが多かったから

 40年以上も住んできたから、取材に応じた経験もたびたびだった。

 その経験を通じて、《取材する当の記者本人が実は自分の取材している問題についてあまりよく知らないらしい》ことがわかってきた。取材される立場には《いま聞かれていること》についての聞き方や言葉遣いで、眼前の取材記者がその問題をどのくらい理解しているかが自然とわかってくることがよくわかった。

 ただし、取材のテーマはいつも違っていた。40年ぐらい前までは住宅不足→住宅資金→住宅イメージといった大まかなところだったが、マンションが公的融資対象となった1970年代に入ると取材されることが一変した。

 この時期は、いつのまにか「住宅評論家」という名をつけられてしまった時代でもあった。取材のテーマは金利の仕組み→住宅と将来計画→住宅入手計画となり、このプロセスに「マンションか、一戸建て住宅か」「新築か中古か」という選択肢の考え方がいつも重なっていった。
                   ☆
 マンションと縁ができる20年近く前の1955年(昭和30年)に、私は住宅金融公庫で住宅と関わる歳月をスタートした。住宅ローンという言葉が生まれたのはそれからずいぶん後だったが、リクルートの「週刊 住宅情報」の登場など住宅ジャーナリズムの勃興期でもあったから、新聞や雑誌、テレビなどの取材が年を追って多くなっていった。

 反対に、このころ全盛期だった霞が関の天下り役人たちがメデイアの取材をひどく嫌がって逃げ回り、いつも取材対応を押しつけてきたという事情もあった。

 そんな状況で取材の相手を務めて続けているうちに、いくつかのことに気づいた。

たまにマンションのことを思い出しながら書かれた記事でも間違いがあると影響は小さくない。不正確な情報は存在自体が害となる

 それは、マンションを含む住宅については、専門社でない限り、どの新聞社でも放送局でも継続して担当する部門がないことだった。企業レベルの視点で考えれば仕方のないことだったかもしれないと今では思うが、当時は、いつも飽き足りなさを我慢する方が多かった。

 いずれにせよ、名刺で記者の所属先を見ても全国紙ではいつも家庭部とか生活部、せいぜい文化部などが普通だった。

 昭和50年代に入ってアメリカの経済政策に触発された福田内閣が、住宅融資テコ入れによる内需拡大を経済政策の柱とし始めた時代を迎えた時てさえも、一般紙誌で住宅を専門的に取り組む記者はいなかった。「マイホーム」という言葉が流行語まがいにもてはやされた時代だったが・・・。

 わずかな例外の一人が、当時、読売新聞にいた本吉庸浩さんだった。のちに日本不動産ジャーナリスト会議の2代目・代表幹事になった本吉さんに誘われて日本不動産ジャーナリスト会議に入ったのが、いま思えばこのブログの遠景になっている。
                   ☆
 それはさておき、そんな経験を重ねながら気づいたのは、取材に来た記者の質問を聞くたびに、いつも住宅について肝心のことがあまりわかっていない印象が強かった点だ。正直に言えば住宅については素人だと気づいても相手のプライドに気を使いながら、説明するときの言葉の意味をそれとなくきちんと解らせる用心深さがいつのまにか取材時の心得として習慣化するようになった。

 そうでないと、後から記事を読んで《え?こんなことを・・》と気がついて驚くことが何度もあったからである。

 30年近く前に社会問題化していた住宅ローン返済破たんの取材に来たある全国放送局の記者から、開口一番「住宅ローンを返せなくて首をくくった人の話をご存じだったら、ぜひ聞きたいんですが…」といきなり切り出されて肝をつぶした時の経験が発端だった。

 マンション管理適正化法ができた直後のちょっとしたマンション管理ブームだったころ、ある人気テレビ番組のキー局が当時マンション管理センターにいた私に電話で「大規模修繕工事のことをざっと簡単に聞かせてください」と言ってきたことがある。あまりにもあっけらかんとした能天気で無造作な質問に呆れ果てて「そんなこと電話で簡単に話せるわけないでしょ?時間のある時にこちらへいらっしゃい」と答えた。

 その後、この局からは音沙汰なしでこの企画はいったいどうなったのかと思っていたら、間もなくその人気番組のウソやねつ造が問題となり、とうとう番組そのものが打ち切りになってしまった。

 こんな経験を重ねてきてわかったことは、専門社を除くと、大半の新聞やテレビでは「住宅そのものをトータルな視点で継続して取り組む組織がない」ために住宅に向ける関心がいつも大ざっぱで、せいぜい風物詩レベルの軽いものになってしまっているという実感だった。情報発信者の問題意識も認識レベルも素人並みだったのだから、マンションのこととなれば、言わずもがなである。

 そうしたもどかしい実感が多かったため、いつの時期からか、取材に対応するときは、まず開口一番[あなたはどんなところにお住まいなんですか?一戸建て?それともマンション?]と聞いてから話を始めることが多くなった気がする。

 とはいえ、相手のプライドは考えなければならない。そこに気をつけて話さないと自分の思い込みで書かれる記事がどんなものになるかわからない。

 大抵の場合、取材記者がマンションに向ける関心は、新築マンションがどのくらい売れたかという市況中心の流通面に限られがちだった。管理などとなれば、もうまるで違う。

 「マンションは管理を買え」などという出どころも意味もあいまいで怪しげな言葉だけは知っているが、その管理の実情を承知している人はめったにいない。長寿命のマンションが時間の経過によってどう変貌していくかという管理の基本認識がマンションの居住性理解の鍵になることをそれとなく気づかせながら、具体的な管理組合の実情をめぐる話を進めていく展開になるのが普通だった。
                   ☆
 こうなると、マンションの管理には特有の語りにくさと書きにくさが生まれることになる。背景には、記事を書く方にも読む方にも共通するマンション管理への関心の薄さがあったことは否定できない。さらに、その奥に、一戸建て感覚でマンションに住むという居住感覚のギャップがあるという疑問が浮かび上がってくる。
                   ☆
 冒頭に書いたような「そんなのに入って何のメリットがあるの」という記者の言葉から浮かび上がる風景の実感は、今もなお荒涼としたままだ。

| muraitadao | コラム | 11:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 25】「専有部分」は「共用部分」のオマケではないが、いま管理組合の視野に十分な位置を占めているのだろうか

マンション管理の仕組みで共用部分と専有部分が常にセットになっている理由は何か

 マンションが長寿命の建物であることぐらいは、誰でも知っている。だから、どんなマンションも壊される日が来るまで、何十年過ぎようと建てられた場所に劣化を重ねながら黙々と建ち続ける。

 長い年数に渡ってマンションがどういう経過をたどるのかも、およそのことなら今ではみんな知っている。10年経ったら、どこの様子がどう変わり、20年目でどんな変化が起こり、30年目には・・・といったことも、大抵の人がおよそのことを承知している。

 だから、マンション維持管理の中心となる建物劣化の予測の必要性は大抵の人の納得を得られることになる。長期修繕計画とか修繕積立金、一定期間ごとの大規模修繕工事なども、すべてこうした考え方が前提になっている。この考え方はマンション管理の中心的な位置を占めてきたし、その具体的な実現は管理組合の存在によって支えられる。

 今までもそうだったし、これからもそうだ。
                   ☆
 でも、この発想を管理組合の実情に照らし合わせると、何か足りないところがあるのではないか。

 それは、この考え方では感覚的なイメージが共用部分中心になっていて、専有部分については実感から考えてあまり明確に想定されていないように感じられるからだ。

 わかりきったことだが、分譲マンションのスペースは共用部分だけではない。すべての人は専有部分を買って区分所有者になる。共用部分は確かに存在するが、それはまず[専有部分がある]からだ。多額の金を投じて買う専有部分があるからこそ、商品としての分譲マンションが成り立ち、その中に「専有部分ではないところが共用部分」という名前で生まれるのだ。

でも共用部分と専有部分は持ち方の区別でしかない。建物の一体性という共通の基本条件を考えると切り離しようがないのだから

 だが、専有部分はそれだけで存在できるものではない。専有部分はそれ自体で単独に成り立つものではなく、一つの建物の中でつねに共用部分とつながって切り離せない形で存在しているからだ。

 専有部分とか共用部分という区別は「持ち主が誰か」という点からだけでとらえた権利的な区分に過ぎない。この区分以前の段階で、まず同一建物スペース利用の当事者としての共通関係が専有部分と共用部分の間にあるのだ。

 維持管理について、専有部分は区分所有者の個人レベルで、共用部分は管理組合の組織レベルで、それぞれに進めるという役割分担的な考え方もこうした状況が前提になっている。

 背景には、同じマンション全体の維持管理という役割分担に先立つ共通条件がある。各戸玄関ドアの内側の個人レベルの管理も、玄関エントランスやエレベーターなどを手がける組織レベルの管理と裏表になって支えあうからこそ、マンションの住みよさが確保されるのだ。

 いちいち言うこともないが、この考え方がマンション管理の仕組みの根っこにあるはずだ。共用部分あっての専有部分と、専有部分あっての共用部分とが一体の建物の中に共存するという考え方が管理組合という組織の存在理由となっている。

 ・・・などということを、今さら大まじめに並べたてることはない。今どき、そんなことは誰だって百も承知のはずだから。
                   ☆
 そう思ってきたのだが、あれっ・・・と思うことが時々ある。

 管理組合は自分の住戸の価値保全だけ考えていればいい、共用部分のことはすべて管理会社に任せておけばいいんだから・・などとこの前から見かけるようになった人がいるのを知ってやれやれと思ったからだ。

でも、共用部分が大事だといくら力説しても具体的にどこまで説明できるのか。管理規約末尾の別表第2だけで本当に大丈夫?

 昔から、そういうタイプの人は、いつも、いた。だが、時々だった。

 この頃は、違う。何しろ、週刊朝日までが、巻頭特集に堂々と「マンション富豪になる」などと見出しをつける時代なのだから。

 こうなると、マンションには専有部分と共用部分がある、などという理屈は棚に上げて、自分の住むマンションのどこととどこが共用部分なのかというリアルな事実確認を多くの人が具体的に確かめてみる必要性がかつてないほど大きいのではないか。

 たぶん大抵の人は、いざとなるとあやふやだろう。

 そう断言できる理由がある。

 管理規約に出てくる共用部分が実にあいまいで、具体的な手掛かりにはほど遠い書き方になっているからだ。

 このもどかしさをさかのぼって考えていくと、標準管理規約の大まかな定め方が浮かび上がってくる。

 標準管理規約(単棟型)の定め方を見ると、そこが、よくわかる。

 まず第8条に(共用部分の範囲)についての1行があり、それに対応するものが末尾の別表第2「共用部分の範囲」として示されている。別表とあるが、表ではない。単なる言葉の列記であって、「1 エントランスホール、廊下・・・/2 エレベーター設備、電気設備、給水設備・・・/3 管理事務室,管理用倉庫、清掃員控室・・」などが並んでいるだけだ。

 これ以外には、何もない。
                   ☆
 私のマンションの管理規約も似たような形になっているから、11階建て4棟600戸という大規模マンションで具体的な共用部分がどことどこなのかという点が管理規約では今もわからない。
                   ☆
 共用部分が具体的にどこをさすのかについての管理規約の見直しや議論があいまいなまま、もう何十年もにわたって放置され続けているような気がしてならない。

 共用部分は専有部分のオマケではないのだから。

| muraitadao | コラム | 12:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 24】「高齢者」。誰もが使うこの言葉、本当の意味はちゃんとわかっているのか

65歳以上なら誰でもみんなひとくくりに「高齢者」だが・・・

 同じマンションに竣工した時から住んでいる人は、ほかにも少なからずいる。建物が経過してから40年あまりの歳月は、その人たちにも様々な変貌をもたらした。

 あと4か月で87歳になる私と似たような人生経験を重ねてきた人の場合は、長年の間に自然と顔見知りになった人たちが多い。時たま、そんな人たちに玄関で出会ったり、マンション前のバス停で一緒になったり、時としては病院の待合室で顔を合わせたりすることもある。

 何度も関わってきた大規模修繕工事で何かと気さくに教えてくれた人も結構いて、こちらの方にはマンションの老人会でいつも顔を合わせる。

 管理組合が取り寄せている市の住民基本台帳人口統計によると、いま600戸の居住者1200人余りのうち、65歳以上の人の比率は4割を超える。内訳を見ると、74歳以下の前期高齢者が全居住者の2割。ついでいうと、最高年齢は男性が98歳、女性は103歳。

 65歳という年齢で「高齢者」を考える限り、さまざまに人間像の異なる状況がマンションで展開していることになる。考え方や話し方の違いから始まって、生活感覚も経済事情も人の数だけ違う状態を確かめる機会がないまま同じ生活条件を共有しながら暮らしているともいえる。


でも「高齢者」って実は複雑。高齢になるまでの歳月がまったく違うのだから・・・

 だが、正直に言うと、「高齢者」の実像は到底こんな言い方でおさまるほど簡単ではない。65歳という年齢だけで区切ってしまう「高齢者」の考え方では、年齢以外の側面が何ひとつわからないからだ。

 事実、国語辞典などで「高齢者」をどう説明しているかを確かめると、かなり用心した書き方になっている。例えば、最近で出たばかりの「広辞苑」第7版は《年齢の高い人。WHOの定義では65歳以上の者。老人とは異なり、年齢のみに着目した呼称》というだけの説明だ。

 うーん、確かにそうだけれど、何だか、これじゃねぇ・・という感じがする。いつもテレビのニュースで見かける政治家にギャングスタイルでさも、これ見よがしの若作りの人物がいるが、あれで、実はもう喜寿だったっけ・・・などと余計な連想まで浮かんでくる。

 ま、どうでもいいけど。
                   ☆
 いずれにしても、いま使われている意味での「高齢者」という言葉でわかることは《その人が生きてきた歳月が65年になる》ということだけでしかない。数字の意味だけが中心の説明だから、それまでの年数の間、どこで、どう過ごしてきたかという、その人固有の事情は本当に何も分からない。その分からなさは、今は「個人情報」というベールに覆われているから、昔よりも徹底しているような気もする。

 実感でいうと、いま目の前にいる高齢者でわかることは、古い付き合いの人でない限り、住戸番号と名前ぐらいしかない。同じマンションに住む人間同士なのだから、もっとよくお互いに知り合おうよ・・・と思うのだが、実際にはそう簡単ではない。こちらでいくらそう考えても、向こうがそう考えるとは限らないからだ。

 もしかすると、この感じは年齢の差を超えて多くの人に当てはまりそうな傾向だから、高齢者に限ったことではないかもしれない。

 そうだとすると、お互いにわかっていることが名前ぐらいしかない状態はマンションのような超近接居住構造の場所では、やはり何かにつけて気になる。場合によっては「気になる」程度を超える不安が生まれることだってあるだろう。
                   ☆
 高齢者の場合、いま目の前に見えているのは、実は高齢になるまでの間に過ごしてきた歳月の結果が語る表面上の様相だけである。少し話してみて、何となく言葉の端々に独特の感じが浮かんでくるので遠慮気味に聞いてみると、現役時代はどこだかの先生だったとか、○○銀行だったとかいうことがわかって、あ、なるほどね・・と得心がいくことも多い。そうなれば、こちらもそれなりに今までよりちょっとあけすけな話をする展開にもなる。

 しかし、そうならないことも、実は結構、多い。とりわけ高齢者の場合は現役時代に染みついた習性があるから、できる限り不要な接触を避けたいという感じが浮かぶ人もいる。何を言われようと黙ったままで、いわゆる「上から目線」的な取っ付きにくい感じが漂う人も少なくはない。
                  ☆
 私のマンションは古いから、エレベーターンの速度がとても遅い。住んでいる11階から1階に着くまで50秒ぐらいかかる。1分足らずの短い時間だが、途中から乗ってきた人と狭い空間の中で押し黙ったままの状態は気詰まりで嫌なので、できるだけ言葉をかけるようにしている。「今朝は寒かったねぇ」とか、どうでもいいようなことばかりなのだが、大抵の人は何か言葉を返してくれるから、それがきっかけで次に会った時には今までより自然な会話ができるようになる。

 ところが、高齢者では、ここが違う。ムスッと黙ったまま黙殺状態の人もいる。

 高齢者特有の個人差が、こういう形で生まれる。

 高齢者の実像は、その人が64歳までに過ごしてきた歳月が今の姿に凝縮されていて、その大部分はちょっと見ただけではなかなか表からは見えにくいのだ。

 でも、考えてみれば当たり前だろう。性格や環境など持って生まれた違いに重なった長年の生き方を、そんな簡単に語り尽せるものではないのだから。《どこで生まれて、どこで何をしてきたのか》という長い年月の物語を誰かに語るには、多くの言葉と長い時間が要るのだから。


「65歳以上らしい」ことだけで何もわからない人が壁を隔てた近くにいる状態のマンションでは・・

 超至近距離で生活条件を共有するマンションでは、共有関係に問題なく相互の住みよさを確保するために管理組合組織が必要になる。

 だが、《区分所有者という権利の持ち主団体》という点だけに注目するのではなくて、《自分の持つマンションに住む生活者の団体》という視点が絶対的に必要となる。

 だが、組織の実際はメンバー次第で決まる。管理組合という組織の実像がマンションごとの居住実態で決まらざるをえない事情がこうして生まれる。

 どんなマンションの管理組合でも、住む人たちの個人差の集積によって物件ごとに固有の居住実感の差が生まれ、それが管理組合の空気を決める。
                   ☆
 高齢化社会などという言葉を誰も思い浮かべなかった時代にできたマンションのイメージ、管理組合の組織像、マンション管理の基本原則が今なお続いていることを考えると、もうそろそろこの点に気づくべきではないのかを痛感する。

 高齢者、高齢者という割には、肝心のことが織り込まれていないままの仕組みに再点検の時期が来ているではないか。

 44年住み続けてきたマンションで、建物と同じ齢を重ねてきた実感がそう思わせる。

| muraitadao | コラム | 09:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 23】お住まいのマンションをお好きですか?:管理最大の鍵は住む所への愛着ではないか

何年かたったらいずれ引っ越すつもりの持ち主にとって管理組合は無縁無関心の存在?

 3度目の大規模修繕工事をすませた時、今までと違う感想が頭に浮かんだ。

 それは《自分が住んでいるこのマンションが好きかどうか》という言い方でしか書きようがない実感である。

 大規模修繕工事は何回やっても厄介な大仕事だ。だが、それを承知の上で、あえて取り組むのはいったい何のためなのか。

 わかりきったことだが、いまのマンションの住み良さが少しでも長く続くようにしたいからだ。

 改めて言うのも気がひけることだが、自分一人だけでそう考えても実現する話ではない。住み良さが一日でも長続きするように・・・などといくら思っても、壁一枚隔てた向こう側に全然そう思わない人が住んでいたら、もう話が変わってくる。

 マンションは「隣人を選べない住まい」なのだから。

 壁や床を隔てただけの超至近距離に隣り合って住む人がどんな人であろうと何を考えていようと基本的には無関係だが、集合住宅特有の構造条件があるから生活面でお互いに一定の影響を及ぼしあわざるを得ない絶対的な状況がある。

 隣の住人が天使であろうと悪魔であろうと、間違いなくそうなる。

 もし隣が空き家化していても、抽象的で観念的な権利の存在が公認されている限り《どこかヨソに住んでいる会ったこともない人》の存在に影響されることになる。

 こう考えると、管理組合がマンション管理の当事者だという理屈には《理事長の○○さんや区分所有者の□□さん》という固有名詞を当てはめて考えないとリアルなイメージが浮かばない虚しさが漂ってくる。

 この点に気づかないと、大規模修繕工事は間違いなくやりにくくなる。

 30年以上昔に気づいたこの実感は10年ちょっと前の2回目の大規模修繕工事でも同じだったし、最近の3度目の大規模修繕工事でも全く変わらなかった。

どこの誰にでも通用する言葉で大規模修繕工事を説明すると何パーセントかの「語り尽せない感じ」が最後に残る・・・

 ○○さんと□□さんは違う。●●さんと■■さんも、また違う。

 人の違いは、考え方や意見の違いでもある。

 管理組合は、何かにつけてこの事情に直面する世界だ。

 3回にわたり関わってきた大規模修繕工事は、この実感を確かめる機会でもあった。《600戸のマンションには600通りの考え方や意見の違いがある》ことを、大規模修繕工事の話が始まって、工事が進み完了するまでの間はいつも再確認しながら「こういうことがあれば○○さんはこういうだろう・・」と思う日々でもあった。

 改めて考えると、大規模修繕工事には制度や仕組みを話す時の言葉では語り尽くせない固有の感じが必ずあった。それは、ほんとうに、もう何パーセントかしかない僅かなものだったが。これは、いったい何だろう・・・。
                   ☆
 たぶん、それは自分の住んできたマンションへのこだわりだろう。このマンションで過ごしてきた年月へのこだわりでもあっただろう。

 さらに言えば、このマンションで起こったこと、ぶつかった事実にいっしょに向き合ってきた人と一緒に過ごした年月へのこだわりだろう。
                   ☆
 なぜ、そういうことが言えるのか。このマンションが好きだからだ。

マンションへの愛着は住んできた年数がもたらしてくれた実感!「10年で買い替えなさい」などという本の信奉者は管理組合のお荷物?

 年数がたてばどうなるか。マンションに住み続けてきた年月は、歳月の経過がマンションとわが身にもたらしたものを確かめ続ける日々だった。

 この実感があるから、マンション管理の本質は年数経過への対応であることを確信できるようになった。経過した年数に対応した変化がホテルと違うマンションとそこで生活する人間にどんな変化をもたらし、どんな対応が必要かを教えてくれた。

 権利と利殖中心で居住性を二の次にする感覚でマンションを考えると、どんなことが起こるかも教えてくれた。マンションは長く住む場所であり、マンション管理は経過する時間に対応しながら住み続ける知恵であることを知った。

 この実感は、自分の住むマンションが好きで、愛着があり、こだわりつづけてきたからこそだからと知った。
                   ☆
 東日本大震災の翌年に「マンションは10年で買い替えなさい」という書名の本が出た。(沖 有人著/朝日新聞出版・2012年12月刊/朝日新書/834円)

 発行当時、いくら何でもここまであからさまな書名はないだろうと思った。見識の高さを自他共に許す朝日新聞系列の出版物とは、とても思えない利殖感覚まる出しの本だった。

 でも、この本はそれなりによく売れたらしい。

 エゴイストの計算感覚むき出しのこんな書名の本を真に受ける人が、それなりに多いらしいと思った。長く住み続けることを第一的に考えている人間には容認し難い気がした。

 で、このブログで、この本のことを書いた。2013年5月15日「10年でマンション買い替えを奨める説をどう考えたらいい?」

 ちょうど5年前の今ごろだ。
                   ☆
 いま読み返しても、このブログを書いた時と考え方は全く変わらない。

 むしろ、この5年間のマンションをめぐる議論レベルの現状にため息が出る思いがする。

 気がつくべき立場の人が、なぜ気づかなかったのか。気づいても黙っていたのか。それとも、大半の人は、全く気がつかなかったのか。

 まさか・・・。
                   ☆
 5月22日の日経朝刊は「東京は持続可能か」と題した「複眼」というオピニオンページに、東洋大学教授の野澤千絵さんの『「老い」深刻、住宅増止めよ』という一文を掲載した。タイトルではわからないが、高経年マンションの問題を語る内容である。

 いまも、まだ5年前とまったく同じままの論調が相も変わらず続いている気がする。

| muraitadao | コラム | 10:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
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  • 【番外】11年目。公開遺言のつもりでブログを書き続けます
    マンション・チラシの定点観測 (11/26)
  • 文庫本より重くて330ページもある箱入りの「東京防災」という本が届いたが、さて・・・
    村井忠夫 (12/07)
  • 文庫本より重くて330ページもある箱入りの「東京防災」という本が届いたが、さて・・・
    尾下 義男 (12/07)
  • 文庫本より重くて330ページもある箱入りの「東京防災」という本が届いたが、さて・・・
    村井忠夫 (11/23)
  • 文庫本より重くて330ページもある箱入りの「東京防災」という本が届いたが、さて・・・
    尾下義男 (11/23)
  • 2年半ぶりでメンバーも変わって再開のマンション管理検討会、たった1か月で結論を出すとは・・・・
    とおりすがり (04/24)
  • 最新の「マンション総合調査」から読めること、読めないこと
    村井忠夫 (09/06)
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    まるーべり (09/06)
  • 都議ヤジ問題の本当の理由は議員の当事者感覚の貧しさ
    村井忠夫 (06/26)
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    ポリス (06/26)
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  • 「沈黙は賛成じゃない」という論理。選挙や総会では?
    マンション管理の情報屋。。。 (09/22)
  • マンションの中の喫茶店が話題になる・・・・:マンションの共用空間の新しい意味をもっと考えていいのではないか
    神園良輔の『マンション展望』 (05/05)
  • マンガ説明入りの規約解説本があってもいいじゃない?でも実際には簡単にいかないけどね
    マンション管理士情報ナビ (05/27)
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  • 女児マンション転落事故のニュースが浮かび上がらせたこと:どこのマンションでも同じことが起こる可能性にどれだけの人が気づいているか
    MANSIONS-COMMUNITY blog (04/15)
  • 「億ション」は最高が1億円なのか、最低が1億円なのか、それとも・・・:管理の基本原則は何億円でも関係ないが
    マンション展望 (02/16)
  • 「美しい国」で、これ以上「美しくないこと」が起こらないように:もっと集合住宅に住む不安を減らすための議論を
    マンション展望 (12/01)
  • 8年前の2月、国会でマンション管理をめぐる史上初の議論が行われた。そして、昨日の朝刊には・・・
    NONブログ (11/27)
  • 書名は買い手にとって本のすべて。本の名前と内容はなるべくなら、あまり違わない方がいいと思うのだが・・・
    高層マンション (08/27)
  • 新しい住宅が建たなくなったというニュースの怖い連想:暗い窓ばかりのマンションが思い浮かぶ・・
    マンション展望 (08/25)
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