村井忠夫のマンション管理ブログ

村井忠夫のマンション管理ブログ
【語り尽くされていないこと、見逃されていること52:年齢】「今の自分」は「昔の自分」の延長上にある。それが誰もみんな同じなら・・

「年齢」が生きてきた年数なら 言葉にも考え方にも それだけの時代の流れが必ずどこかに隠れている

 このごろ何かにつけて「年齢」という言葉の意味を改めて考えるようになった。「年齢」はこれまで生きてきた年数をストレートに示す言葉だから、何十年と続いてきた時間軸の延長上にある。自分の生まれた年に始まった長い長い時の流れの上で起こってきたきたことは、すべて《今の自分》にどこかで必ずつながっている。

 そのつながりは、自分自身が気づくかどうかに全く関わりなく、有無を言わせぬ形で《今の自分》の姿にどこかで関わっている。《今の自分》がふと語る言葉にも生きていく気持を動かす考え方にも、年齢や時代の鮮明なイメージがどこかで間違いなく隠し絵のように影を落としている。

 私自身についていえば、1931年(昭和6年)に生まれてから2017年4月25日の今までに起こったこと、そのすべてを自分がどう受けとめてきたかが、このブログのどこかにあらわれていることになる。それは、このブログを書いている私の存在に生きてきた時代がまるごと切り離せない状態で否応なくつながっているからだ。

 少し気恥しい気持にもなるが、正直な実感である。

 この点に誰一人として例外はあるまい。政治家であろうとジャーナリストであろうと無名の一市民であろうと全く変わらないはずだ。

 その人が語ったり書いたりする言葉を通して私たちが知り得るその人の考え方は、その人が生まれた時代を背景として生まれてきたものだからだ。

2017年に見えている《今のマンション》は何年も前に建てられた《昔のマンション》だから そこには竣工した時代がいたるところに映っている

 この感慨は、そっくりそのままマンションに当てはまる。

 《今の自分》が長い年月を経た《昔の自分》であり、長い年月の流れがほかならぬ《今の自分》に反映しているのと同じように、《今のマンション》は竣工以来、何十年も過ぎた《昔のマンション》であり、はるかな昔に建てられた時代のすべてが目前の建物の光景に反映しているといえるからだ。

 この点は、《昔》という言葉を具体的に何年前と考えるかによってかなり違ってくるが、仮に30年という言葉を当てはめてみると、どうなるか。

 築後30年のマンションを考えてみるなら、1987年(昭和62年)竣工ということになる。昭和も末の時代だが、今にして思えば、気づかぬうちにバブルがもう始まっていたことに思い及ぶ。

 景気効果を期待して「マイホーム」のイメージで国策機関の住宅金融公庫融資が年利4.5〜5.0%というレベルでマンションの売れ行きを支えた時代だった。

 マンション市場の広がり方に気づいた新規参入のデベロッパーが相次いだ。マンションの需要を支えたのは団塊の世代で働き盛りの40歳代。パパがいてママがいて、かわいい子供が二人いて・・というイメージの核家族が圧倒的な買い手で、どのマンションもファミリー向けLDKタイプが中心だった。

 マンションはコンクリートの長寿命建造物だから、堅牢な頼もしいその眺めも、やがていつの日か古びていく時期が来ることは、誰もが頭の隅で思い浮かべていた。だが、そんなことはすぐ頭から消えてしまって差し迫った実感はまだまだ遠い時代だった。

新しいマンションで管理にまだ実感がなかった時代の仕組みが今もそのまま・・。これって大丈夫?

 筆者が住む4棟600戸マンションは、この頃、築後13年目を迎えていた。最初の大規模修繕工事が課題となり、成り行きで旗振りを務めることになってしまった時代だった。

 ここから後のいきさつや記憶はもうとても簡単には言い尽くせないから、すべて別の機会に譲る。

 ただ、一つだけはっきり語っておきたいことがある。

 それは30年前に様々な機会を通して胸に浮かんできた実感や腹立たしさをこらえながら押し殺してきた疑問が、今もなおほとんどそのままの強さで残っている点だ。

 ほんの少しだけ、本当にいくつかだけあげてみよう。

●マンションに住む人が一戸建て住宅と同じ感覚で暮らすのはなぜだろう・・。

●マンションに住む常識が偉い人やお金持ちや難しい理屈を述べ立てる人に全くいないのは、どうしてだろう・・・。

●マンションが大きくて複雑なわかりにくい住居だというわかりきった当たり前のことをはっきりいう人が、今もめったにいないのはなぜだろう・・・。 

●『マンションは管理を買え』なんてまことしやかに真っ赤なウソをいい出したのはいったいどこの誰だろう・・・。

●働き盛りでマンションに関わろうとする人がエリートになる例が少ないのはなぜだろう・・。

●「マンション」っていったい何だろう・・・。

●「管理組合」っていったい何だろう・・・。

・・・・・・・・・・・・・・ 

 むなしくなってきた。もうやめる。

| muraitadao | コラム | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること51:教育勅語】言葉だけのつまみ食い解釈でわかった顔をするとは笑わせる

「教育勅語」を訳知り顔で議論する人はあれが生きていた時代に思い及ばぬ鈍感さに気がつかない?

 バカバカしい。苦々しい。くだらない。あほらしい。片腹痛い。「教育勅語」がどうだとかこうだとかいう議論が・・・。

 「教育勅語」が、実は中身の意味などまるでお構いなしのやたらに難しい言葉の塊の押しつけだったことに気がつかないのか。

 「教育勅語」が生きていた時代に教育された小学生から見れば、あれは何だか、まるで中身のわからないチンプンカンプンの代物だったのだ。紫色の布に包まれた巻物のような正体不明のモノがのっている黒塗りのお盆を恭しく捧げ持った校長先生が、目の前を通る時ひたすら頭を下げていなければ、いつもひどく叱られた。そんな代物をしまってある別棟のお宮のような小さな建物が「奉安殿」だった。その前を通る時も、必ず頭を下げなければならなかったな・・・。

 中学生になったら、今度は「軍人勅諭」。それに「戦陣訓」。どれもめちゃくちゃに棒暗記させられたから、意味などそっちのけで、ただもうお経と同じ代物だった。

 奇妙な成り行きでよみがえってきた思い出したくもない記憶は、嫌が応もなく名ばかりの授業と並んでいた「軍事教練」や「工場動員」を連想させる。
                   ☆
 「教育勅語」がどんな意味の代物だったのか正体がわかったのは、すべて戦争が終わってからだった。すべて、後で知ったことだった。
                   ☆
 こんな代物でも有無を言わせぬ意図で重くのしかかったのは、そういう時代だったからだ。言葉はそれが使われた時代の空気の中でこそ本当の意味を持つという肝心なことにまるで気がつかないまま、《憲法とか教育基本法に照らし合わせて》どうだとかこうだとかいう議論がさも重大な意味ありげに伝えられる。

 ちゃんちゃらおかしい。まともなレベルの大人の話ではない。

時代の視点を忘れると目的と手段がすり替わって言葉だけの空疎な手続論になってしまう

 そもそも「教育勅語」が過去のものになったのは、遠い昔のことだ。存在すら忘れられていたはずなのに、このごろになって急に議論されること自体が奇妙ではないか。

 大阪のヘンな学校経営者と、それに共鳴したどこやらの気楽な奥さんが絶好の話題作りの種になっただけの話ではないか。国会で議論したり新聞が社説で取り上げたりするような重みのあるレベルの話ではないだろう。

 要するに、議論のための議論ではないか。今ごろホコリを叩いて「教育勅語」を引っ張り出すなら、断片的に言葉のつまみ食い論議をするのではなくて《あの代物が、誰によって、どんな使い方をされたのか》という時代背景を考えた広がりのある視点が必要ではないか。

 仮にも「教育」と名乗った文書だ。「教育」が時代の視点抜きで語られるべきものではないことを、なぜ誰も考えないのか。

 時代を抜きにして考えるから、目的と手段が入れ替わって干からびた意味のない手続き論になり下がってしまう。CMまがいの空っぽな言葉だけになってしまう。

 目的と手段がすり替わっても、手続きだけは空っぽな形のまま言葉の上では成り立つ。だから、小難しい言葉で、さも、もっともらしく語ることはできる。

 それが議論倒れになっていることにも気づかぬまま・・・。


目前の建物が何十年も昔に建てられた事実を忘れるとマンション論議はむなしくなる怖さ!

 時代抜きで考えると自分の語る言葉が空っぽになってしまう怖さは、マンションの場合、とてもリアルな実感がある。

 いま見ているマンションは、実は、もう何十年も前に建てられたものなのだ。いま見えているマンションの光景は、もしかすると自分が生きてきたよりも長い年数の歴史を物語っているかもしれないのだ。

 だが、その長い年月は世界遺産のような《これまで経過した年数の長さ》とは違う。そこに人が住んできた時間の流れが今もなお確実に進んでいる最中の光景なのだ。今日の光景は昨日の、昨年の、そして建てられてから現在まで何十年にも及ぶ光景の続きなのだ。

 マンションが人の住まいである限り、その流れの光景の中にはいつも老若男女、様々の大勢の人がいたし、今もいる。これからも、いるだろう。

 マンションを考える人は、そういう意味で建てられた時代を背景としていつも考えなければならない。いま竣工後30年ぐらいのマンションならバブルの時代背景を、40年ぐらいたったマンションなら日本列島改造論にまだ実感があった時代を思い出しながら、考えなければならない。

 マンションは決して《いつの時代もみんな同じ》ではないからだ。
                   ☆
 「教育勅語」論議のむなしさは、マンション論議の隠れた盲点を気づかさせる。

| muraitadao | コラム | 07:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること50:メール】使い慣れた人とまるで使えない人が隣り合って住むマンションで・・・

メールでわかりあう世界。挨拶抜きでいきなり用件が分かりさえすればいい、と言えば確かにそうだが・・

 安倍首相夫人のメールが、何かにつけてニュースに流れる。

 なじんで久しいメールだが、考えてみると身辺には今でも使っていない人が珍しくない。思い返すと、メールのやりとりを始めて間もないころは、メール特有の文章スタイルや言葉の使い方が毎回いつも気になっていた。

 例えば、メールの冒頭に必ず出てくる《いつもお世話になります》というあの書き方。会ったこともないし顔も知らないような人からのメールの文面なのに、始めて読む文面が《お世話になります》で始まる。ご丁寧にそういわれても、「お世話になる・・」といわれるほどの実感はまるでないのだが。

 その一方、普通の手紙文ならまずくだけたやり取りで書き出し始める言い方は、メールでは全く関係ないらしい。

 メールの書き方はよくいえば率直ということだろうが、挨拶抜きでいきなり用件に入るむき出しの書き方が相手にどんな感じで受け取られるだろうかと気になる場合は、逆にその率直さが気がかりの種になる。そんなことをいちいち気にしても仕方がないといわれれば、確かに、もう、そうなのだが・・・。

 そんなわけで、何かを伝えたい相手にメールの表現感覚で書いていいかどうかは、今でもけっこう気になっている。何かを伝えようとする時に、《拝啓》とか《時下ますます・・・》とか紋切り型で書かなくても、《桜がほころぶ時期になりました》といった程度のことはこちらも書きたいし、もらった時もその方がいい。

 これは、全く理屈では説明できない気持なのだが。 

「冗長度」のある文章の方がわかりやすいという考え方の真実。“無駄”の重み

 ここまで書いてきて、突然思い出したことがある。

 もう40年以上も前になる。昨年(2016年)亡くなられた唐津 一さんに教えていただいた言葉だ。情報工学の大学者だった唐津 一さんはこの頃まだ松下通工だったか・・。

 注)唐津 一氏は情報工学者。旧電電公社、松下通信工業(現・パナソニックモバイルコミュニケーションズ)から東海大学へ。電子計算機時代初期の実情からニッポンそのものまで独特の語り口で飽かず論じ続けた。昨年の終戦記念日に97歳で世を去った。

 持ち前の気さくな雑談の中で《冗長度》という言葉があることを雑談の中で教えられた。英語では《リダンダンシー》というのだとも。

 精密性が欠かせない運転席などの設計で、無駄な操作を一切しないことばかりを重視する考え方で計器の位置などを設計すると、かえって操作者がミスを起こしやすくなる。理屈通りにならない厄介なこの現象を防ぐために、あえて無用な計器をわざわざ紛れ込ませた設計をした方がいい場合がある。

 判断源となる情報データを読み取る人間の理解能力には合理的な必要度だけでは割り切ってしまえない側面があることを考えて、あえて必要性のないものを意図的に介在させて人間の緊張度を緩めるという考え方だ。この考え方を《冗長度》というのだ、と。

 40年も前に聞いたこの考え方や言葉が、その後どうなっているのかは全く知らないのだが、人間の理解能力にはこういう考え方が必要となる側面があると気づかされた衝撃は、とても大きかった。

 《冗長度》という言葉を知って以来、一概にムダといわれることを気軽に見過ごせなくない発想が身体に染みついてしまった気がする。

 昔、私の文章は、建設省からきた天下りの役人たちから、いつも《回りくどい》とか《余計なことを言いすぎる》などと文句の言われ通しだった。

 逆に、普通の人たちには喜ばれた。わかりやすいとか、納得できて安心する、とも。この当時の経験は《和文邦訳》を表現上、最大に重視する習性となって、その後の執筆活動の支えになった。その点は、今も変わらない。 

《冗長度》という言葉の中にメール全盛時代のマンションで欠けているものが見つかるかもしれない

 マンションは大勢の人が住んでいるのに、コミュニケーションが足りないなどといった嘆きを聞くようになってから久しい。誰もがそういうのに、どうしたらいいのかわからない。

 そんなもどかしさが、もう長らく続いている。

 このごろ何かにつけて気になるのだが、管理組合の中で以前にはなかった形で意見が対立することがある。そういう場合、意見の出し方、もっと詳しく言えば、自分の考え方を表現する方法や言葉の使い方が原因ではないかと思えることが多い。自分の考え方を相手にわかってもらえるような言い方を考えないまま、自分の考え方ばかりが露骨に並ぶ言い方がきっかけになったりする。

 この現象にメール的表現感覚と非メール的表現感覚の違いが関係してはいないだろうか。相手の受け取り方をあまり考えないまま、いきなりむき出しの書き方で短い言葉を並べる感覚で意見を述べ、物事を決めている傾向はあるまいか。

 メールが無縁な高齢者世代とメール万能の世代との間に『伝えてわからせる』ための表現感覚にギャップが生まれているのではないか。
                   ☆
 表現感覚は属人的な問題だ。だから、どんな人たちの住むマンションなのかが実情にことごとに関係する。それだけに管理の現場を知らない人には通じない問題だ。

 いろんな人の意見や経験を聞きたい。

| muraitadao | コラム | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること49:文書破棄】捨ててしまいたいのは記録か過去か、それともその両方か

 このブログは、ラジオの国会中継を聞きながら書いている。あるはずの文書がないとか、誰も考えなかったFAXの紙が出てくるとか、文書の持つ意味の重さが今さらのように大きく浮かび上がる。

文書を捨ててしまえば何とでもなる?急場をしのげれば捨てたはずの文書が見つかることも・・・

 今さらでもないが、役所の文書というのは、いったいどういう扱い方になっているのだろうか。

 たぶん文書保存規則のようなルールがあって、文書の性質によって保存年限が決まっている・・・といったことにはなるのだろうが、最近のニュースを見ていると、やはりわからないことが多い。

 一つは、「文書」のイメージが昔と一変してきたことが関係しているのかもしれない。高齢化時代の今でも「文書」という言葉を紙に書いたイメージで考える人が多い一方で、ICレコーダーやパソコンのメモリーで記録することも珍しくない。目的も用途も公式のものばかりではなく、私的なメモも少なくない。

 ただし、手段や保存の形が違っても書き留めた内容を後で読み返して参照する目的は共通しているし、それが人間の忘れっぽさへの対応手段である点も変わらない。

 そういう事情があるから、何かあれば、すぐ《文書があるか、ないか》が大きな論点になる。文書の意味はとりも直さずそのまま人間の記憶と同意義化するわけだ。

 大阪の何とかいう素性不明な学校建設用の国有地が格安で処分されたケースや、自衛隊の派遣先の状況報告文書が破棄されていたはずだったのに後から見つかったというケースなどを考えると、そう思わざるを得ない。

 もっとも3月20日の東京都議会の百条委員会の中継を見ていたら、尋問する方が過去の文書でしきりに何かと問いかけているのに、元都知事の方は体調がどうだとか何だとか述べ立てて空とぼけっぱなしだったというケースもある。

 文書の有無が意味するものも、結局のところ、その文書に関わる当事者の人間性によってどうにでも変わってしまうこともあるらしい。

40年以上保管してきた自分のマンションの記録をどうしようかと思い悩む毎日・・・

 実は、いま思い悩んでいることがある。

 たまりにたまったマンション管理組合の関連文書をどうしたらいいか・・・。

 このブログにも何度か書いてきたが、竣工以来ずっと住み続けてきたマンションが来月で43年目を迎える。いま86歳の人間にとって、人生の半分をこのマンションで過ごしてきたことになる。

 それだけの年数を過ごしてきた人間が何年経つとマンションのどこがどうなるかを確かめてきた。11階建てが4棟、およそ600戸のマンションで、43年の歳月が住いとしての建物をどう変貌させたか、居住者が1000人をはるかに超える管理組合の実情をどう変えて来たかも、目の当たりに見つめ続けてきた実感がある。

 大規模修繕工事など管理組合の課題の乗り切り方も一通り確かめてきた。

 そんな歳月の記録がいま結構な量になっている。広報誌や総会資料だけでもなけなしのスペースをふさぐボリュームは小さくない。

 40年以上たって、居住者の顔ぶれも一変した。管理組合の役員などは親子ぐらいの世代差を痛感せざるをえない。管理会社も企業合併で縁もゆかりもなかった大企業系列になったから、実務的な対応で理詰めな感じが強くなってきた。

 こうなると、このマンションの過去のことは誰にもわからなくなる日が確実に近づいていく一方だ。マンションのここに、どういう考え方で、どういう工事をしたのかとか、管理組合のこのやり方はいつから始まったのかなど、日本神話さながら霞の向こうにぼやけて確かめようもないことがたくさん生まれ始めている。

 しかし、こんな思いのする文書を管理組合に寄付しようとは思わない。管理組合の実情を考えれば、間違いなく散逸してしまうことがはっきりしているからだ。

 いっそスキャンしてメモリーに入れたら・・とも思うが、年齢を考えると、時間とエネルギーがとても・・・と思う。

 いったい、どうしたものだろうか。考えあぐねている。

マンションが建ち続ける年月の長さに人間の記憶が追いつけないことがはっきりしているのに・・・

 こういう問題をどう考えたらいいか。今のマンション管理システムには全く答えがない。法律や仕組みにはそもそもこんな視点の問題意識がないから、まるであてにならない。こういう問題を考えている人など、いったいいるのかどうか。

 役人や学者はまるであてにならないし、さりとてマンション管理士や弁護士が頼りになるはずもない。

 そもそも、当の管理組合自身にこういう問題意識がない。管理会社には、もっとないだろう。

 もう10年ぐらい前に『マンションみらいネット』というのがあった。国交省やマンション管理センターが打ち出したマンション管理組合の履歴保管システムだ。

 この仕組みの考え方は間違っていいないと、今も思う。

 しかし、率直にいえば《机上の空論》に近い構想だった。それが証拠には、この仕組みは肝心の管理組合ではほとんど知る人がいない。

 それぞれのマンションに固有の建物修繕や管理組合運営に関する文書記録をネットの活用で実現できたら素晴らしい。

 でも素晴らしいことが実現するわけではない。素晴らしくても実現しない方がはるかに多い。当然ながら、そうなるだけの理由があるのだから。

 素晴らしい『マンションみらいネット』が実現しなかったのは、この仕組みの対象となる管理組合の実情に理由があったからだ。今も、そこは変わらないし、むしろ内攻して複雑化している。

 マンションは長寿命の建物なのに、そこに住む人間の記憶の方が追いつかない。建物だけがボロボロになって建ち続けても、人間の記憶も記録も確かめようのない状態でぼやけていくばかり。

 そのことだけは空恐ろしいほどはっきりしている。・・・・

 もう、これ以上,書きたくない。

 むなしいから。

| muraitadao | コラム | 18:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること48:災害のイメージ】大災害は人の数だけイメージが違う。マンションではなおさらだ

同じ「東日本大震災」という言葉なのに《その時どこにいたか》で思い描くイメージはまるで違う

 東日本大震災のあの日は金曜日だったから、午後は翌日のマンション管理セミナーのための下調べをしていた。40年以上前に建てられた11階建てマンションの11階の自宅で。

 目の前のガラス戸の向こうの、まだそれほど暖かくない風景に目を向けたとき、いきなりドンという音といっしょに、肩を強引につかまれたような横揺れがきた。ガラス戸はみんな開いてしまい、クローゼットの扉もいっぺんにみんな開いた。リビングの向こうのキッチンでガタンガタンと何かが倒れる大きな音がした。

 思わず立ち上がったが、揺れが収まらなくて机から手が離せない。15分ぐらいはかかったような気がする。

 ・・・といったあの日のことを、今もまざまざと覚えている。人にも話した。

 ところが、相手によって反応がみんな違う。ぴんとくる人もいたが、《それが、どうした?》といった感じの人もいて様々だった。同じマンションの住人に聞いても、居住階によって揺れ方の感じは微妙に言い方が違っていたような気がする。

 大震災の翌週、超高層マンションに住んでいる知人に会ったので、さぞ揺れたでしょうねとひそかに期待して聞いたら、その日は朝から外出していたので自宅にいなくて揺れ方がよくわからなかったんですよと聞いて、ひそかに拍子抜けした。

 あれほどの大震災でも《その時どこにいたか》で感じ方はまるで違うことを改めて実感した。

 「東日本大震災」という言葉で一様に誰もが思い浮かべるのは黒々とした大津波が無情に襲いかかる海岸の光景だが、リアルな当事者感覚で感じ取る「東日本大震災」という点になると、実は《3月11日午後2時46分、自分がどこにいたか》でずいぶん違うことをまざまざと思い知った。

当事者感覚の重さが言葉の使い方を慎重にさせた。「読む」言葉も「語る」言葉も

 この実感は重かった。その重さは今も全く変わっていない。

 災害に関する言葉を読むときも聞くときも、同じ言葉でも人によってどれほどイメージが違うのかということがいつも気になるようになった。災害について語る人があの時どこにいたか、伝えられる情報はどこの誰に向けたものなのか、ことごとに使われる言葉が気になるようになった。

 そういう実感とともに、聞くたびにうんざりする言葉や間違っても使いたくない言葉がはっきりしてきた。東日本大震災以後あちこちで目にするようになった『絆』という言葉はその典型例だった。何でもかんでも『絆』『絆』で、CMや歌の名前にまで『絆』が出てきた。

 『絆』『絆』と、さもわかったようにいうが、どこの、どんな人たちの『絆』なのか。石巻市や飯舘村の人たちの『絆』なのか、それとも新宿や大手町の人たちの『絆』なのか・・・。

 あのころ突然できた政党に『新党きづな』という名があって、とうとう『絆』もここまできたかとうんざりしたが、あっという間にすぐ消え失せてしまって、むしろほっとしたことを覚えている。

 こうなると、自分が書いたり語ったりするときの言葉には当然ながら用心深くなる。一応の見極めをつけて使う言葉であっても、読み手や聞き手のイメージにマッチしていなかったらこちらの思いは確実に空転する。

 そんな独りよがりはしたくないから、書く言葉や語る言葉の選び方が慎重になった。

 《安心安全》という無造作なほど便利重宝な感じでいろんな人が使う言葉などは、絶対に使う気にならなかった。

マンションの安全、防災、交流、コミュニティ・・・。伝えたいことが本当に伝わっているのか

 東日本大震災のあと、「コミュニティ」とか「交流」、あるいは「コミュニケーション」といった言葉がマンション管理の分野でも目立つようになった。

 もともとマンションは本質的に多くの人が生活条件を共有する集合住宅だから、居住者同士の日常的な接触や交流はあるのが当たり前だった。

 しかし、それが実際にはそうならず、同じマンションに住んでいながら目も合わせず、いつも会うのにお互い名前も顔もわからない状態が、何かにつけてどこのマンションでも気がかりになっていた。

 マンションは名前もわからない行きずりの他人が壁の向こうにいるホテルのような状態になる一方だった。

 そんな気がかりが消えないのにマンションの大規模化が進み、超高層マンションが増えて、昔とは比べられないほど多数の人が同じ建物に住む実情とは逆にコミュニティや交流が希薄になる矛盾が、痛切な論点になってきた。

 その状態で東日本大震災が起きた。

 災害で語られた言葉が、マンションでも同じような感覚で語られるようになったのは当然の成り行きだったろう。

 しかし、今や600万戸を超えるマンションは建築時期の新旧、戸数規模の大小、階数の高低、立地の地域差など、物件ごとに実情は千差万別だ。

 同じ「コミュニティ」という言葉を使っても、50戸のマンションと500戸のマンションでは、その言葉が伝えようとしている実情がまるで違う。まして、名簿の作り方などという実践論になれば、もっと違う。

 そこを考えないまま語られると「コミュニティ」とか「交流」という言葉は現実感が薄くなる、ピンと来なくなる、むなしくなる、空々しくなる。

 「コミュニティ」や「交流」といった《人と人との触れ合いを示す言葉》は、どんなマンションを前提としているかによって具体的な考え方がまるで違う。その言葉で語られているのはどんなマンションの話なのかによってイメージはまるで違うのだから。《ウチのマンション》という言葉をつないだ感覚で「コミュニティ」や「交流」をやり取りするのでなければ実感がないのだから。

 《ウチのマンションの全体》がわかっていなければ「コミュニティ」や「交流」なんて言えないのではないか。
                               ☆
 「コミュニティ」を語るときは、まず相手にこう問いかけるといい。『あなたがお住いのマンションで名前と顔が一致する人は何人いますか?』

| muraitadao | コラム | 07:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
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