村井忠夫のマンション管理ブログ

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【あらためて「マンション管理の常識」を見直すと・・3】まさか国会でマンション管理のことが・・20年前の2月がすべての始まりだった

国会の、それも衆議院の予算委員会でマンション管理のことが質問されたって?そんなことあるはずないじゃないか・・・

 2月になると、必ず思い出す。1999年(平成11年)2月4日の国会の衆議院、それも予算委員会で分譲マンション管理の問題が議論されるという、それまで誰も考えなかったことが起こったからだった。

 そんな話、あるわけないじゃないか・・・。

 国会でマンション管理の話が出るなんて、そんなはずない。何かの間違いに決まってる。

 でも、間違いではなかった。分譲マンションの管理の仕組みについて現実的な視点で具体的なやりとりが展開されたのだ。

 その記憶は、ちょうど20年過ぎた今も鮮明に残っている。

 それぐらい思いがけなかった。

 実際、あの時の質問がきっかけでマンションをめぐる様々な動きが起こり、マンションという言葉を名称に取り入れた「マンション管理適正化法」が生まれ、この法律による国家試験資格としてマンション管理士などが生まれることになったのだから。

 当然マスコミの視線も一変した。それまでとは豹変した感じの視線が、にわかにマンションの管理に向けられた。テレビも新聞もマンションの管理のことを連日にわたって取り上げた。ある全国紙は、社説でマンション管理のあるべき姿を堂々と論じ立てた。たぶん、社説でマンション管理が論じられたのは日本新聞史上初めてだったのではあるまいか。

 雑誌や単行本にもみるみるうちにマンション管理ブームが広がり、神田の書店街ではマンション管理コーナーまでが売場に特設される光景まで現れた。

 住宅ローンで付き合いがあった新聞や雑誌が、ひっきりなしに電話をかけてきた。テレビやラジオもそうだった。電話で聞いただけでわかったつもりになられると困るし、それがまた新しい問題になりかねないから、きちんと取り上げるつもりならこちらに来なさい、それが嫌だったらもう細かい話はしないから・・とはっきり言ったこともあった。

 でも、こんなにざわめいた様子が長続きするはずがないと思っていた。果せるかな、この熱っぽさは短命だった。その後のことは書くまでもあるまい。

368万戸から644万戸へ。20年間でこれだけ増えたマンション。今や超高層も珍しくはない時代となったが・・・

 国交省の「分譲マンションストック戸数」のデータで見ると、この20年間でマンション戸数は368万戸から644万戸と276万戸の増加となっている。これだけのマンションは規模や立地など様々に違うはずだが、過ぎた年月に対応して古くなっているのは間違いない。

 そんなマンションで、大規模修繕工事とか長期修繕計画などはどうなっているのだろうか。マンションは良きにつけ悪しきにつけ、経過年数が長くなるほど居住性のレベルが下がりやすくなるが、管理の様子はどうなのだろうか。

 空き家は?
 高齢化は?
 外国人は?
 大災害は?
 ・・・・
 そして
 管理組合は?
 管理会社は?
 マンション管理のプロたちは?

 東日本大震災もあったこの20年間で未経験のことが一気に増えたと、あらためて思う。マンション管理の世界は、ある意味で経験原則が重視される分野だ。それだけに、在来の総論原則では手に負えない物件ごとの問題があると固有の練達した経験があっても立ち向かえなくなることが昔から心配だったし、今もそうだ。

 大震災など未曽有の自然災害に超高層マンションの増加という言葉から浮かび上がるシーンは次にどう展開していくのか。経験に裏付けられた予測ができない不安を否定できない。
                   ☆
 マンションが建てられれば、その数だけマンション管理の対応度の必要性が大きくなる。何年たってもマンションがマンションとして同じ場所に建ち続けるのは管理の裏付けがあればこそだ。その意味で言えば、マンションの管理はあくまでも居住性の確保に視線を向け続けてきた経験の集積だと断言していい。

 管理という課題は過ぎていく長い年月の経過への対応なのだ。マンション管理の本質は、物件ごとに固有の居住者としての経験に支えられた時に、初めて真価が実現する。短時間で通り過ぎる旅行者の滞在経験と、長年月にわたる居住者の生活経験は基本的に違うからだ。
                   ☆
 大丈夫なのか。

| muraitadao | コラム | 10:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
【あらためて「マンション管理の常識」を見直すと・・・ 2】45年目の実感:管理組合のわかり方はマンション管理実務への関心次第で決まる!

「お住まいのマンションは何戸ですか」「名前と顔がわかる人は何人ぐらいですか」と聞かれてすぐ答えられる人は・・・

 同じマンションに45年も住み続けていれば、居住年月の記憶に管理組合組織との関わりの記憶が重なるのも当然だろう。

 もっとも、これは目の前の事態から目をそらすことができない人間の話かもしれない。人は様々だから、全然そんなことがない人もいるだろう。

 いや、むしろ、そっちの方が多いのではないか。

 同じマンションに住んで同じ年月の間に同じようなことを見てきたのに、そんなことどこ吹く風・・・という人は、確かにいる。それも、一人や二人ではない。どこ吹く風ではあっても、けっこう社会的な地位の高いその辺とは違う人もいるのだが・・・。

 同じマンションに住んできた人の顔ぶれを思い出すと、竣工後10年ぐらいまでは高級官僚もいたし、大学教授もいた。一部上場大企業の幹部もいたし、劇作家もいた。大メディアの人も、ハイレベルの作曲家もいた。

 みんな、いつとはなしに顔も見なくなってしまったが・・・。

 マンション住ま45年の記憶は、こんな人たちと顔を合わせてきた年月の記憶であり、いつとはなしに顔を合わせなくなってしまった年月の記憶でもある。玄関やエレベーターで出会った時に何気なくとりとめもない言葉を交わしてきた記憶の積み重ねかもしれない。

 しかし、こんな人たちとの交流の記憶が、管理組合と関わってきた記憶に重なることはまったくない。こうした人たちの記憶に管理組合との関わりは、40年以上に渡って、いつも無関係だった。

 同じマンションに住んでいても、年齢や仕事、生い立ちなどはみんな違う。人づきあいに関わる感覚も、性格に応じてかなり違う。加えて、最近は名前さえ出したがらない人が多いから、顔に見覚えがあっても誰だかわからないままの人もいる。何年も前から「○階の○○号あたりの人」といった見極め方しかできない人もいる。

 実感から言えば、そんな人たちが確実に増えている。

 決して名乗らないからどこの誰だかわからないものの、玄関などで見かけるあの不愛想な人は何号室の人だろうとか、何かにつけて見当違いのクレームを持ち込むのに名前がわからないといった人がめっきり目立つようになった。

 何かとこちらの生活感に影を落とす人が壁や床を隔てただけの至近距離のところに住んでいるのに、名前がわからないという不可解さやもどかしさは、もしかすると長期滞在型のホテル住まいと似ているのではあるまいか。

 人は「親を選べない」というのと全く同じ重さで「隣人を選べない」という固い実感がいつの間にか生まれていた。

 こうした環境であれば、マンションだの管理組合だのという言葉など、この人たちには思いも及ぶまいと思うようになる。

 黒塗りの車で送り迎えのあの人物は、自分の住戸以外のことなどほとんど関心を持ったこともないのではあるまいか。
                   ☆
 この実感には、エレベーターで始めて乗り合わせた人に会った時の感じとどこかで通じるものがある。最上階に住んでいるので、1階に着くまで1分足らずのわずかな時間でも、途中階から乗ってくる人の顔ぶれが自然となじみ深くなる。「今日、○階で乗ってきたあの人は、もしかすると昨年の秋に越してきた人だろうか…。あれは、ちょうど3回目の大規模修繕工事が終わった直後だったが…」などと、とりとめない感想がしばらく続く。
                   ☆
 でも、そういう人はマンションの管理組合のことまで確かめて買ったとは、正直なところ考えにくい。チラシの物件概要に出ている管理費や修繕積立金ぐらいは見ているかもしれないが・・。
                   ☆
 このマンションでは役員が当番階方式で決まるルールになっているから、中古マンションとして引っ越していたばかりの人と管理組合の役員会などで一緒になることがある。やり取りを重ねているうちにその人が「このごろ越してきたばかりで、管理組合のことはあまりよくわかりませんので…」などというのを聞いて、「あ、そうか、やっぱりな…」と思ったことが何度もある。

建築後年数が経ったマンションほど 自分の住むマンションの過去がわかりにくくなっていく

 実感で言うと、どこであろうと古くなったマンションでは竣工以来の居住者が確実に減っているはずだ。そうなれば、自分が住んでいるマンションの過去を知る人は間違いなく減っていきつつあるはずだ。

 竣工したあと、いつごろ管理組合が生まれて実質的に動き始めたのだろうかであろうと…。こんな疑問がわいた時「法律の考え方では区分所有者が複数いれば、そのマンションには管理組合が存在していると見なすものだ」などという理屈は全く役に立たない。

 管理組合では誰にもわからないことがあっても管理会社なら知っているはずだなどと訳知り顔で言う人がいても、その管理会社が倒産したり、企業統合などで一変したりしていることも、もう珍しくない。そんなことがなくても、古い時期のことは担当者だった社員が定年退職でいないなという話はザラにある。

 もう、やめておこう。キリがない。
                   ☆
 どんなマンションでも、竣工してから重ねられてきた管理の年月は、こうしてわからないことばかりになっていく。

 どれほどリッチでデラックスであろうと、マンション住まいは大きな建物の一角で暮らすことに変わりがない。そこに気がつかない人は、自分の住戸が位置している建物の全貌についての無知さに自覚がないまま、あたかも自分の住戸だけがぽかりと空中に浮かんでいるかのような錯覚にとらわれている…。
                   ☆
 どこのマンションにも、それぞれ固有の歴史がある。だが、今のマンション管理のシステムには、そういった人間感覚に対応できる仕組みがない。

 辛うじて自分の必要に迫られながら見つけてきたことも、だんだんおぼろげに消え失せ始めている。
                   ☆
 自分の住むマンションのことも知らないのに、物事を決める仕組みではそこにまったく関係なく意思表示できる…。

 おかしくはないか。

| muraitadao | コラム | 08:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
【あらためて「マンション管理の常識」を見直すと・・・ 1】年が変わっても昔からの常識は今までと同じように通用するのだろうか

お住まいは戸建てですか、それとも・・・と聞いて大ざっぱに話が展開したものだが・・・

 この頃はあまり顔を出さなくなったが、年が変わるこの時季は何かと集まりで初対面の人と会話をする機会が多い。

 初めて会ったばかりの人と向き合うとあまり共通の話題がないが、幸いにして住宅やマンションの関係の集まりの場合であれば《お住まいはどちらですか》と聞くと、そこそこに会話のきっかけがつかめる。

 地名を聞けば、ごく自然な形で住宅やマンションに話題を持っていけるからだ。

 「お住まいは・・・」と問いかけると大抵の人は大ざっぱに地名をあげて「○○です」と答えるから、その地名でおよその見当がつく。これで話のきっかけができれば「あ、なるほど」とか何とか意味不明の相槌を打ちながら《戸建てですか、それともマンションですか》と聞いて会話のイメージを絞っていくことができる。

 でも、このやりとりができたのは、戸建てとマンションという住宅スタイルの対比で誰にも共通するイメージがあったからだ。

 以前は住宅双六といったイメージがあって、上りは「庭付き一戸建て住宅」だった。この語り方にはマンションにも戸建て住宅にも定型化されたイメージがあったものだ。

 だが、この頃は、ちょっと違う。

 向かいあってやり取りしている同士が頭の中で考えている戸建てとマンションのイメージが必ずしも同じようなものとは限らない場合が多くなってきたからだ。

 特に、マンションは規模の大小、経過年数の新旧を考えると、もはや単純な言い方ができなくなったと思う。

言わず語らずのうちに新築か中古かを探る微妙な展開が自分の住まいの光景を決める・・・

 戸建てかマンションかの区別に話が展開すると、その先が微妙な展開になる。新築か中古かの違いがあるからだ。集合住宅でも一戸建て住宅でも、今や新築か中古かの違いでそこから先の話の進み方が微妙に違ってくることになる。

 マンションの場合は、物件の場所や建築時期で、ここから先の展開がさらに細かく決まってくる。戸数や階数がはっきりすると、もっと話の展開が大きく変わる。場合によっては、管理の様子や建て替えなどにまで話が及ぶ。

 そうした会話の展開は、対話の相手が分譲マンションに持っている関心の度合いによってかなり違う。戸建てにはないマンション特有の生活感覚をどの程度に持ち合わせているかによって、それまでの《どうでもいい》といった取り留めのなさが現実的な共鳴感に絞られていく予感を帯びてくるからだ。

 マンションのイメージに共有できる見込みがありそうだと思わせる感じになると、話の展開によっては、お互いの持っている《住宅への関わり方》も分かってくる。いま住んでいるのが持ち家か借家か、今のところには何年ぐらい住んでいるのか、今の住まいにこれからも永住するのか、それとも・・・といったことにまで話が及ぶことだってある。

 こんな会話を重ねるほどになると、初対面だった相手との距離がぐっと近くなってくる。会ったばかりの人への親近感が生まれてくるという思いがけなさが、こうした会合への期待を大きくする。
                   ☆
 住まいへの関わり方、とりわけマンションなのか戸建て住宅なのかによって対話の展開は一変するのは、当事者としての関わり方が感覚的にまるで違うからだ。住んでいる当事者としての関わり方という意味では、マンションと戸建て住宅との形態的な違いに加えて、住んできた居住年数の長さも大きく関係する。

 新築か中古かという物件条件は、実は、生活感覚の深さや幅の広さを浮かび上がらせる指標にもなるからだ。

 新築か中古かを意識しながら住まいをどんな言葉で語るかによって、暮らしてきた年数の長さがきわめて自然な形で浮き彫りになってくる。

 特に、壁や床を隔てただけの至近距離で多くの人と生活空間を共有するマンションでは、そういう感じになる。

 例えば、年末年始のマンションのゴミ置き場を考えてみるだけでいい。

 《人が生きていく》というのは、実は《ごみを生みだしながら生きていく》という意味にほかならない。それほど住まいにごみの問題は表裏一体なのに、建前やルール、仕組みの上では、具体的なことが何も示されていない。

 標準管理規約の別表の中に「ごみ集積所」という言葉が出てくる一例を除けば。

「自分の言葉で自分の住まいをどのくらいまで語れるか」―この問いかけの常識感覚が難しくない人はどのくらいいるだろうか

 「住む」ことは「生活する」ことに裏付けられなかったら、意味を失う。住んできた年数の長さは生活してきた年月の長さで支えられてこそ意味を持つ。さらに、もともとは個人レベルの意味だけだった「住む」という言葉に、生活展開の背景となる居住環境というバックグラウンドの意味を重ねると、それなりの広がりを持つエリアの変遷が経過年数によって一場面のシーンとなって、えも言われぬ現実感を持ち始める。
 ・・・・
 自分の住まいが過ごしてきた年数は、そこに生きてきた人間の物語でもある。物語の展開はどんな場所に住んできたかというステージによっても大きく異なる。

 自分の住まいを、どんな言葉で、どう語るか。

 簡単ではない難しさがあるが、時間をかけながら、答探しをしなければなるまい。

 《当り前》の一語でわかっているつもりだった常識を、あらためて見直したい気持ちが、今さらにして強くなってきた。

 齢甲斐もなく・・・。

| muraitadao | コラム | 06:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 41】マンションの越年でこれまでの記録が大事だと気づいた人はどのくらいいただろうか

マンションが新しいうちは管理組合が開店休業状態でも困らなかったが あっという間に10年が過ぎて・・・

 今年は、5年ごとに回ってくる管理組合役員の当番階の年だった。だが、87歳という年齢になると、正直なところ、もうそろそろ・・・と思う。体調に特別の変わりはないが、何をしても疲れやすくなったのは確かだ。

 長年取り組んできた管理組合組織活動への側面協力も、このあたりで納めにしたいというのが本音である。

 幸せなことに、この齢でも普通の生活を過ごしているし、管理組合のルールに年齢の条件など、どこを探してもまったく出てこないから、何歳になれば役員を引き受けなくていいという理由などみつからない。

 なまじ年齢などに対応する仕組みを取り入れていたら、高齢化社会で長寿命のマンションを管理できる見込みがなくなってしまうと早くも気づいた人がいたのに違いない。はるかな遠い昔、マンション管理の仕組みを考えた人の先見性に驚き、敬服する。

 このままだといずれ、管理組合の理事会に100歳の老人と18歳の若者が隣り合って意見を述べるマンションが珍しくなくなるかもしれない。

 何しろ、管理組合は区分所有者の団体だという、いとも単純にして明快な考え方のルールがあるだけなのだ。持ってさえいれば、何歳だろうと、どんな人だろうと、いっさい決まった条件がないのだから、これはわかりやすい。

 それはともかくとして、45年も住んできた実感で言えば、600戸のマンションに住む大半の人は、それほど管理組合の仕事に熱心でなく、さりとて非協力的でもないという実感がある。

 だから、役員選びの時も自分から進んで手を上げるような人が少なくて時間はかかるものの、結局は、何とかなる。それなりの時間が過ぎれば、大部分の人はどれかの役割を引き受けて、何とか次年度の役員決定のおさまりがつくのが普通だったから。

 自分から進んで引き受けるほどの熱意はないが、居住者である自分自身と関わる役目の意味は心得ている。だから、自分がその関わりの確認を求められた場合はそのまま受け入れるという消極的な感覚がいつもみんなにあった。

 入居したときはまだ40歳代前半。マイホーム、マイホームという掛け声の一端をかついで一番よく働いていた時期だった。大抵の人と同じように、マンションはただもう寝て帰るだけの場所だった。

 誰も彼もが、そんな気分で動き回っているうちに、毎日がどんどん過ぎた。あのころは時間の過ぎ方が早かったなぁ・・・と思う。

 そんな中でも、《マンションは管理を買え》などという意味不明の言い方を訳知り顔で誰かがいうのを聞くことがあったが、《え?それが、どうしたって?》という程度の感じでおしまいになった。管理組合とか区分所有という言葉の実感は、まるでなかった。

 何でもそうだが、管理という考え方にはモノを所有する実感を裏付ける重さがあるはずだが、持ち物が新しいうちはそれほどピンとくる実感がない。まして共有建物であるマンションでは住み始めた当初から自分一人の単独所有ではないという意識があったから、管理が自分と関わるなどという自覚は誰にも薄かったと思う。

 世が世なら、もともとは一戸建て住宅に住みたかったが、こと志と違ってマンション住まいで妥協している・・・。

 その意味で、今はもう死語に近くなった「マイホーム」感覚が、いつもマンションの居住感覚の真ん中にあった。

建物の全体像抜き自分の住戸だけがマンションだった時代のマンションは住宅双六の通過点でしかなかった

 一種の屈折したこの感覚がマンション管理の自覚を妨げる結果となったのは、否定できない。マンションがマイホームという言葉で語られていた時期は、専有部分となる玄関ドアの内側だけが頭にあり、大抵の人にとって自分の住まいとしてのイメージではマンションも一戸建て住宅も同じだった。

 こんな居住感覚の時代は、マンションは専有部分だけが念頭にあったから、共用部分は頭の中に浮かばない。マンションが大きな建物の全体像イメージで思い浮かべられることがあっても、それは正面玄関ホール、廊下、階段など自宅までのごく限られたスペースだけだった。長い間住んでいても、まだ足を踏み入れたことがない未知の空間が誰にも必ずあった。でも、それを不思議にも思わなかった。

 毎朝、玄関に迎えの黒いハイヤーが来る霞が関の偉い人も昔は住んでいた。のちに政府の高官になったと聞いて、あ、なるほど・・ね、と思った。あんな人でもやっぱり管理組合のメンバーなのかなぁと思った不可解さも覚えている。

 管理組合は、機会さえあれば、自分もいずれは一戸建てに・・・というイメージが多くの人の頭の中にある組織だった。

 今はもう死語になったと思うが、昔「住宅双六」という言葉があった。人の一生を住まいの面から考えて、結婚したらまず賃貸アパート、子供が生まれたら賃貸団地、それから賃貸マンション、それから分譲マンションを経て最終的なゴールは庭付き一戸建て住宅という展開で、そのイメージは平均的な日本人すべてに当てはまる人生コースそのものだった。

 分譲マンションは、そうした住宅コースの通過点だった。口にこそ出さないが、誰にとってもマンションは一戸建て住宅を目指す途中で通過するだけのものだったから、何年も分譲マンションに住んでいると甲斐性がないとか、よほどの信念があるかのどちらかだろうというのが通念だった。

 引っ越して出ていく人にはゴールを実現した人へのかすかな羨望を交えた視線が向けられたものだった。年数のたったマンションは、もはやマイホームではなくなっていた。

やがてバブル。売り出した会社は姿を消し、竣工後の居住者が増えて マンションの昔は年ごとに遠くなっていった

 45年の間にバブルが起こって、消えた。マンションの分譲会社も姿を消したし、居住者もすっかり変わって、竣工当初からの居住者は絶滅残存危惧種と化した。

 だから、かえって45年住み続けてきた今の居住実感は貴重だと、つくづく思う。年月が過ぎたマンションでは物事がどれほど変わるかをいろいろな形で嫌になるほどじっくり見せてもらってきたからだ。

 45年経ってわかったこと、ほかの人にもぜひ伝えたいことは、もう本当に限りがない。

 マンションは長寿命の建物だが、住んでいる人間の方はまるで違う。建物はそれほど予想を超えて変わることはないが、人間の方はまるで違う。やや年月の経過を見せながら建ち続けるマンションで、人間の方は予想を超える変わり方を見せた。

 今のマンション管理の仕組みも、いずれ変わらざるを得まい。変わらなかったら、どうなるか。放置されて無人化し管理どころではなくなったマンションの実情も、この秋のブログに書いた。

 そんなことも記録があればこそ、何とかなる。

 この時期に、そんなことを考える人は、いまどのくらいいるのだろうか。

| muraitadao | コラム | 04:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 41】マンションの12月は管理の正直な素顔が現れるシーズンではないか?管理組合にとっても管理会社にとっても

○○号室に住んでいる人は何という名前ですか?

 マンション正面玄関の光景には、そこに住む人が管理をどう考えているかが正直に浮かび上がっているような気がする。

 ○○号室には何という名前の人が住んでいるかという当たり前の事実を誰にもわかるような形で示すというのは、マンションがマンションとして成り立つための基本条件である。ビジネスビルと違ってマンションの本質は人の住まいなのだから、そこには必ず誰かが住んでいるという状態の表示は当然の話だ。

 だが、この頃は必ずしもそうとは言えなくなったようだ。マンションに住んでいる人自身が名前を出さないようにしようという風潮が強くなってきている。

 こんな風潮の生まれる原因は、はっきりしている。名前が個人情報だからという理由だけで、とにかく名前を出さずにすませよう、名前はできる限り出さない方がいいと考える人が多くなっているからだ。

 名前が個人情報だというのは、当たり前のわかりきった話である。集合住宅で住んでいる者が自分の名前を出すのも、今さらいうほどもない常識だ。

名無しの権兵衛でもあるまいし、住宅に自分の名前は出すのは当たり前。名前が出ていなかったら、あのウチはきっと何か人に言えないワケがあるに違いないと誰もが思ったもの・・・

 集合住宅であろうと一戸建て住宅であろうと、自分の住まいに自分の名前を出すのは常識中の常識だった。マンションが一戸建て住宅に代わる住まいとして登場した半世紀前の昔から今もこの常識は変わらない。

 無人の空き家やワケあって人目をはばかる隠れ家でない限り、住宅に名前を出すのは当たり前の話だった。

 子供のころ「○○寓(ぐう)」という表札の家を見かけることがあった。もともと「寓」は人の住まいの意味だから「安倍太郎」とか「麻生二郎」とかフルに氏名を書けばいいのになぜそう書かないのかと、いつも不思議だった。

 ずっと後になってから、それは「名前を書けないワケがあるからだ」と聞いて少し納得した。

 やがてそのワケはわかったが、人に知られたくない事情があっても無人の空き家ではなくて、れっきとした人の住まいであることを示す表札は欠かせないもので、住まいに氏名を全部出せないことがあっても苗字だけは表札に出すものなのだと、子供心に思っていた。

 だから、表札がない家なのに誰かが住んでいる様子があったりしたら、あそこは、きっと何か表に名前を出せないようなよくよくの事情があるのに違いないと単純に決めていた。自分の住まいには自分の名前を出すものなのだから、名前を出さないウチは何か特別の事情があるのに違いない・・・。

 マンションだって人の住まいだから、そこは同じはず。

 そう考えてきた。

 今も、そう考えている。

隣の人が誰だかわからないマンションはホテルと同じ。実質的に賃貸マンション化した名ばかりの分譲マンションでは…

 何も問題のいないマンションなら近隣の人と同じところで朝晩いっしょに過ごしていても、短期間なら隣の人の名前がわからなくても別に困ることはない。

 ホテルで隣り合った部屋に泊まるのと同じだ。隣の部屋に泊まっている人の名前など知らなくても、いずれどこかへ行ってしまうのだから、いちいち気にする必要もない。同じところで過ごす期間が短ければ会う機会が少ないし、まして共通する生活条件などもないからだ。

 隣に誰がいようとかまわないし、それは逆に隣から考えても全く同じである。
                   ☆
 だが、マンションはそこが違う。

 ホテルは泊まるところだが、マンションは住むところだからだ。

 ホテルは借りた空間で生活条件の確保も他人任せだし限られた期間だけ借りて使う場所だが、マンションは生活条件の確保は自分が持ち主として何とかしなければならない場所だ。自分が何とかすることもできなかったら、費用を払ってどこかに頼まなければならない。

 その場合も、自分が持ち主であることにはまったく変わりがない。

 お金を払って泊まるホテルと、持ち主として住むマンションは、ここが違うというだけのことだが・・・。

 でもこの違いがわからなかったら、住む人の感覚はホテルと同じになる。そうなれば、分譲マンションとは名ばかりで、実質的には賃貸マンションと化してしまうはずだが・・・。
                   ☆
 住んでいる人の名前がすぐわかる状態のマンションは、そういう状態を確保している人がいる。

 必要なら名前を出すことを知っている人が、住んでいる。

 名前がわかるのは約束事があって名前を聞く人には誰もが名前を知らせるからだ。

 そうしなければ住みにくくなる仕組みがあるからだ。

 住んでいる人は誰もがその仕組みを知っているからだ。

 その仕組みが、そうしなければならない約束事と必要なお金の支払いで成り立っているからだ。
                   ☆
 マンション管理とは、結局のところ、そういうことではないか。

| muraitadao | コラム | 08:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
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