2009.06.25 Thursday
フタバアオイが京都と静岡を結んだ:自分が住むところに興味を持つ人が増えればマンションのコミュニティ感覚はもっと変わるのでは
京都のフタバアオイのことが静岡のニュースになった:マンションと地域コミュニティの関係が昔から議論のテーマだったことを思い出すが・・・
京都のTさんからメールが届いた。Tさんは京都のマンションに住んで管理組合の問題にいろいろ取り組んでいる人である。・・・ということだけだったら、Tさんから届いたメールも、管理組合の組織がどうだとか大規模修繕工事がどうだとかいった話だったろう。
だが、そうではなかった。管理組合がフタバアオイの株分け運動にも取り組んでいて、その活動の一つとして、かつて京都・上賀茂神社から徳川家康に献上するための使者が静岡に向かった故事にならい、この6月11日、京都のメンバーがアオイを静岡市の駿府公園に運んだというニュースが、静岡新聞と静岡放送で伝えられたというのがTさんからのメールの内容だった。
正直なところ、フタバアオイのことは、よく知らない。しかし、アオイが徳川の紋所で縁があること、葵祭は京都の古いお祭りであること、静岡でも葵についての感覚は独特だからこそ葵区などという行政区画名もあることといった程度の知識はある。
大したことではないのだが、そうした知識がマンションと結びついたことに予想外の意味がありそうな気がして、Tさんが送ってくれた資料にも全部目を通した。おかげで、アオイのことに少し詳しくなった。
このケースを知って、かねてからいつも頭にあった管理組合と地位コミュニティの関係が改めて浮かび上がってきた。
マンションと地域コミュニティ。わかったような、わからぬような、とらえどころのない厄介で考えにくい課題だ。マンションの現場を知っていれば、どんなに素晴らしいマンションも地域と無縁に孤立して存在できないことなど、とっくの昔からわかりきっていた。だから、何十年も前から、マンションと地域コミュニティの関係は、僅かな人の間でいつも議論されてきた。
ただし、それはひそやかなもので、通じる人同士の間でしか語られることがなかった。だから、管理組合と地域ミュニテイの関係は、いつもマイナーなテーマだった。管理組合といえば、いつもまず区分所有法が語られ、大規模修繕工事が論じられ、管理費の延滞が取り上げられてきたが、管理組合と地域コミュニティの関係がメインテーマには決してならない日々が長く続いた。
標準管理規約に「地域コミュニティ」という言葉が使われる時代がきたが・・・
だが、時代が少しずつ変わってきた。マンションが増えるにつれて昔は考えもしなかった地震がどうだとか防犯がどうだとかいう話題が多くなって、マンションの管理組合は自力で何もできないことが改めて少しずつ気づかれ始めた。マンションが地域から浮き上がった状態では成り立たないことが意識されて、ようやく管理組合の組織運営上の課題に地域コミュニティというキーワードがあることがわかってきた。
その問題意識が遅まきながらようやく公認されたのが、数年前に改正された標準管理規約だ。このときの改正で、標準管理規約の中にコミュニティという言葉が始めて登場したからだ。
しかし、登場したものの、実際には、このキーワードで何を言おうとしたのかという肝心要のことは今もってよくわからない。そのことは、標準管理規約が管理組合の役割や管理費の性質について述べた条文で次のような言い方をしているのをみればよくわかる。いわく「地域コミュニティにも配慮した居住者間のコミュニティ形成」。
その後、この点についての明確な議論を聞いたためしがない。しかし、世の中で起こる様々な事態がマンションでも決して例外ではないことがわかるにつれて、いつまでも区分所有法ベースの議論では手がつけられないことが再認識されるようになってきた。
そこで、管理組合と地域コミュニティの関係が、昔とは違う切実感で語られるようになった気がする。しかし、多くの場合、それは管理組合と町内会や自治会をどう区別して考えればいいかといったレベルの議論が今も多い。この議論も確かに必要なのだが、地域コミュニティのイメージを町内会や自治会だけに限定して考えるのが適切かどうか・・。それが、いつも頭にあった。その中で、このフタバアオイのことをTさんのメールで知ったのだった。
管理組合とはいったい何だというところに戻ってくるかもしれない予感がする
こう考えてきたが、実は、書きながら頭の中の整理は全然できていない。
Tさんのメールで知ったフタバアオイのケースを現実的に考えると、いろいろなことが浮かび上がってくる。京都で計画されたことが静岡で受け入れられるまでに長い時間がかかったはずのプロセスはどう進んだのか、フタバアオイという植物へのエネルギーの組織レベルでの集中をどういう方法で取り組んだのか、管理組合はこの動きに組織レベルで関わったのか、それとも有志の形だったのか、マンションの居住者に自分の住む地域への関わりを普段どういう方法で知らせているのか等々、際限がないほどいろいろなことが浮かび上がってくる。
しかし、一つだけはっきりいえそうなことがある。
それは、管理組合という組織を区分所有法の定める区分所有者の団体という発想だけで考えると、ほとんど何も答が見つからなくなってしまう点だ。確かに、分譲マンションには区分所有者がたくさんいるが区分所有していない居住者も大勢いること、ファミリー全盛のイメージで建てられたマンションにファミリーのない人が一人で住んでいること、高齢者の増加や空家の発生が管理組合と地域との連携を強く意識せざるを得ないことなどを考えると、管理組合を区分所有者の団体と考えることもさることながら、その区分所有者は間違いなく生身の人間であることに目を向けて、管理組合がマンション周辺の地域と生活条件を共有する生活者組織であることを再認識すべきだという点である。
管理組合と関わりを持つ地域コミュニティを町内会や自治会以外の組織イメージで考える方がいいのではないかというところから考え始めたのだが、結局、管理組合っていったい何だというところにぶつかってしまった。
いまさらながらの感じだが、ここをきちんと確かめておかないと先へは進みそうもない。
フタバアオイの話の意味は、小さくない気がする。
2009.06.15 Monday
管理組合の人やマンション管理士などに読後感を聞いてみたい小説:貫井徳郎「乱反射」
見えないところで、ちょっとしたルール違反をみんながやれば何が起こるか・・・
貫井徳郎「乱反射」を読んだ。気づくほどでもない不作為や約束事違反などが、知らない間に連鎖関係を生んで予想外の結果をもたらす怖さを浮かび上がらせて、この小説の作者の力量を知った気がする。
頭の中では、誰しもやってはならぬこと、守らねばならぬことを知っている。多くのことは言葉にまとめられてルールになる。が、ルール通りにすべてが動くかといえば、そんなことはない。ルール通りに物事が動くなら、大半の問題はなくなるだろう。
ルールは守られてこそ意味がある。逆にいえば、守られなかったら、ないも同然になる。
毎朝の散歩で、犬が出すフンは必ず飼い主が始末しなければならないことぐらい、誰でも知っている。そういうことがどの法律に書いてあったか覚えてはいないが、誰かが知らずにフンを踏んで不愉快な思いをしないように犬のフンは始末するのが飼い主の常識だ、ということも大抵の人はよく知っている。しかし、中には、そうでない人もいる。
わかっていることを誰もが必ず実行するとは限らない。この真理を日常生活次元で直視すると、ふだん見過ごしている怖い光景が目の前に見えてくる。もしかすると、自分だって、その怖い光景に入ってしまうかもしれない・・。そう思わせるところに、この小説のリアリティがある。
マンションだって例外ではあるまい。ゴミ出しトラブルで管理組合の理事長が刺殺された事件もあったではないか
この小説を読むと、どうしたってマンションで暮らす日常風景に思いが及ぶ。やってはならないことを知ってはいても、誰も見ていなければたまにはいいじゃないかという程度の感覚はほとんどの人にあるし、だからこそマンションのトラブルは昔も今もあまり変わらない。ゴミの出し方への対応がこじれて管理組合の理事長が刺し殺された事件だって起こったのだ。そこまでいかなくても、ペットがどうだとか騒音がどうだとかいうケースになると、もう誰も今さら何もいわないほどマンションでは当たり前の風景になっている。
でも、それを放っておけないと考える人もいる。それが、管理組合の問題にもなる。ところが、どうかすると、それをルールで対応しようという発想になることが多い。ペット問題がその典型だ。10年も20年も昔からペットは答の出ない問題の典型だが、そうなってしまった理由の一つは、ペットをどうするかという問題をルール作りで考えようとするところから生まれている。
ルールを作ろうとすれば、どういう言葉で、どういうケースを想定してルールをつくるかという点に必ず突き当たる。ルールを守らない人も必ず出てくる。人の数だけ意見が分かれて、毎年交代する理事会にはとても簡単にはまとめられなくなる。総会を開いても、出てくる人はそんなにいないから委任状で形だけまとまる程度になってしまう・・・。
・・・という経過をたどることが珍しくない。ルール以前の問題が、まだ何かあるのではないか。誰も見ていなければたまにはルール違反をやってもかまわないのではないかという感覚が、知らないところでどういう結果を生むのかという点に、少しだけ想像力を働かせれば、何かが見えてくるのではないか。
どういうときに、ルールの中身が、どういうふうに当てはまるかを考える想像力が鍵ではないか。解釈論争のむなしさを超えられるのは想像力しかないのでは
昔から、管理組合の世界では、管理規約や法律解釈論が多かった。この考え方が間違っているとはまったく考えないが、この発想だけでは限界があることに気がついてもいいような気がする。どうかすると、近隣の付き合いを避けながら住んでいるのに、こうした議論になるとにわかに熱心になるような人だっていないではない。何かといえば、それは管理規約の第何条違反だからといった考え方が理事会で幅を利かせる傾向もないではない。
ルールの有効性はルールの使い方で決まると思うのだが、それは結局、どういうシーンでそのルールが当てはめられるのかという想像力次第ではないだろうか。ルールの限られた言葉が、どういうシーンで、どういう意味を持つことになるのかを多くの人に知らせる知らせ方で結果がかなり違ってくるのではないか。
こう考えてくると、どうも最後の鍵は想像力によるルールの意味づけの知らせ方ではないかという気がしてくる。
こうした視点の議論は、まだ聞いたことがない。いろんな意見を聞いてみたい。その前に、まずこの小説を読んだ感想を聞いてみたい。とくに、管理組合の人やマンション管理士に・・。
2009.06.05 Friday
GM破綻の報を聞き管理費滞納者が住宅ローン延滞者の何倍もいる可能性が気にかかる:ニュースが伝えなくても「起こるはずのこと」は必ず起こるのだから
GM破産のニュースの翌日、住宅ローン破綻16,000人のニュースを聞く
GM破綻のニュースが大きく報じられたのが、6月2日。ずいぶん前から何度もニュースが流れていたから、唐突感はない。しかし、現実に起こってみると、やはりあらためて今の時代の怖さを実感する。
このニュースの翌日、6月3日の朝日新聞は朝刊1面で「マイホーム競売最多/ローン破綻し1万6千件/旧公庫08年度」というニュースを伝えた。
念のため書くと、このニュースが伝えているのは、2008年度に住宅ローン延滞で競売にかけられたケースである。2008年度だから、昨年の4月から今年の3月まで。この12か月間のうちのおよそ半年あまりの期間には、まだリーマンショックの影が及んでいない。だから、リーマンがつぶれGMがお陀仏になった今、住宅ローンの破綻者は、とてもこんなレベルではあるまいという想像がつく。
さらに、気になることがある。住宅ローンの返済ができなくて競売にかけられるのは6か月以上の長期延滞だ。したがって、5か月以下の中期延滞者も1〜2か月の短期延滞者もこの1万6千人の中には入っていない。住宅ローンの延滞はすべて1か月分から始まり、督促されても払えないまま2か月分、さらに3か月分になり、いつの間にか半年過ぎて6か月分になるという経過をたどる。このプロセスは、昔からまったく変わらない。
大部分の住宅ローン延滞者は、経済的な条件がやや不十分であっても基本的には普通の生活常識を持つ人が多いはずだ。だから、住宅ローンを借りてあこがれの「マイホーム」を手に入れようとするときに、つい将来の見通しが甘くなって判断にゆるみが生まれる。その隙をつく仕組みが「変動金利」であり、「ボーナス返済」であり、「元利金等返済」だ。利用当初段階の仕組みには、大したことがない感じの小さな数字がたくさん並ぶ。かつては、こうした感じのメニューに旧公庫の「ゆとり返済」が入っていた。
しかし、こんな仕組みの見せ掛けの数字は数年たてば消えうせて想像を超える返済負担の重さが本当の姿を現す。住宅ローンの延滞は、いつもこうした経過をたどって生まれる。
この経過の背後にある家計収支の実情は、その時代の経済情勢次第で決まる。だから、経済情勢が悪化すれば、必ず住宅ローンの延滞が増える。この経過は、昔から変わらない。天気が西から変わるのと同じ確率で起こる。だから、ニュースに出なくても、今のようなおどろおどろしい経済情勢のときは確実に住宅ローンの延滞が起こる。6月は梅雨の時期だから雨の日が多くなるのと、同じくらい当たり前の現象だということにもなる。
だから、今度の新聞報道に、少しも驚きはない。この記事を見て驚く人もいないだろう。
住宅ローンを延滞する人が管理費を延滞しないだろうか・・・。管理費延滞が増えたら管理は大丈夫だろうか・・・。修繕費用が不足したらマンションは安心して住めるだろうか・・・
気になるのは、経済情勢が悪化して住宅ローンの延滞が増えるという事態が、今度の記事のような過去形の話ではなくて現在進行形の問題である点だ。さらに、競売件数の数字が象徴的に示す実態の大きさを考えると、短くはないが長くもないこの記事の灰色のイメージは際限もなくふくらんでいく。
住宅ローン延滞を生んだ因果関係をマンションに絞って考えると、どういうイメージになるか。管理費や修繕積立金の滞納だ。住宅ローンを延滞する人が、管理費や修繕積立金を延滞しないといったことは、ふつう考えられない。管理費はマンションの住みよさを確保するための資金基盤である。管理費といっしょに納められる修繕積立金は建物の劣化対応に欠かせない費用だ。こうした費用を払わない人がいると、間違いなくそのマンションは住みにくくなっていく。だから、住宅ローンの延滞が増えれば管理費などの延滞も見過ごせない課題となる。
が、管理費などの延滞がニュースに出ることは、昔からほとんどなかった。しかし、ニュースが伝えなくても、実は間違いなく大半のマンションで管理費などの延滞が起こっている。この4月に国土交通省から発表された最新の「マンション総合調査」でも、3か月以上の管理費修繕積立金の延滞に直面している管理組合が40%近いとなっている。比較的ましな状態だと思われるこの調査回答者の管理組合でさえそうなのだから、この調査の対象にならなかった無数のマンションの状態は推して知るべきだろう。
では、どうすればいいか。一にも二にも自分のマンションの実情を確かめるしかない。これが唯一の方法になる。ニュースが報じなくてもマンションの中でいま何が起こっているかを確かめることは、すべての始まりだ。
区分所有法にも標準管理規約にもまったく出て来ないが、管理組合にとって現実の課題になる事態は想像以上に多い。管理費などの収支状況の実態確認は、その意味ですべての管理組合にとっての急務だろう。
2009.05.25 Monday
「住宅政策のどこが問題か」を読む:思い出したこと、考えたこと、気になったことがあまりに多すぎて
これが新書かと驚くような新書:著者も「新書という媒体に戸惑った」と述べているほどだから
平山洋介著「住宅政策のどこが問題か〜〈持家社会〉の次を展望する」を読んだ。3月20日に発行された光文社新書の一冊である。
出版不況だが、新書だけは盛んに新刊が出る。その分だけ競争が激しいのだろう。内容とずれた書名の際立ち方が著しい。この1年間、これはと思って買った書名の新書にはずいぶんだまされてきた。だから、この本も書名が気になって買ってはみたものの、読んで見なければわからないという気分で読み始めた。
が、そんな気分で読み出してから、すぐ、その警戒感は消えうせた。「はじめに」とある10ページ以上にわたる部分で述べられていることの一つ一つが思い当たって納得できたからだ。これはこの1年間だまされてきた類の新書とは違う、年数のかかった著者の蓄積が凝縮された本であることを感じた。
そこで、認識を改めて日数をかけながら克明に読み出した。正直、読みやすい本ではない。昔なら、こういう書き方の本は専門書として刊行されたものだ。著者自身も「あとがき」でこう書いている。『(執筆注文を受けて)新書という媒体に戸惑った。・・・センセーショナルな言葉づかいばかりが目立つ本が好まれ・・・消費される。本書は、新書としては読みやすいとはいえない・・・』。
著者自身が言っているほどだから、この本は確かに読みやすくない。説明抜きで普通の人に通じるとは考えにくい言葉や表現が非常に多いからだ。そのせいかどうか、刊行後2か月たったが、いまだにほとんどの書評でこの本が取り上げられた形跡がない。
※書き終わった後、2009年5月24日付・朝日新聞朝刊の新刊書評で、千葉大学教授(公共政策)広井良典さんという人がこの本のことを書いているのを目にした。大部分はこの本の内容紹介だが、「・・・都市計画やまちづくり、土地所有との関連についての著者の考えも聞きたい・・。いずれにしてもきわめて包括的かつ具体的な説得性に富む内容で・・・本書を契機として住宅政策のあり方が新たな視座から議論されることを強く望む。」とある。私が書評を書くとしたら、これとはまったく別のことを書いたに違いないが・・・。
しかし、一読者としてはこの本は忘れがたいものとなった。この本の中に書かれていることが鮮明な情景となってうかびあがってくるからだ。
プロフィルをみると、著者は現在神戸大学大学院人間発達学研究科教授。1958年生まれとある。今は姿を消した住宅金融公庫に私が入ったのが1955年だったから、この本に書かれていることには仕事と自分自身の生活を通して関わり続けてきた半世紀以上の日々の記憶が完全に重なる。理解も鮮明になるが、思い起こすことがこの本ではどう述べられているかがわからないままで気になる点があるのも事実だ。
そういえば、思い出した!!カニだって自分の巣穴は作るんだから人間が家を自力で作らなくてどうする・・・、予算消化のために火事で焼けた人用の住宅建設策はないか・・・
この本には、持家社会という言葉がいたるところに出てくる。持家社会という言葉は、生活基盤となる居住空間の確保に「持つ」という手段が最優先される社会という意味の言葉だろう。持家社会では「住むための場所」の確保に「持つ」ことが重視されるから、逆に「持たない」で「借りる」という手段が冷遇されてきたという指摘は、感覚的にもよくわかる。持家すなわちマイホームという発想が世帯ベースの住宅需要を想定させ、これが住宅を生活財ではなく高額商品に変貌させる市場主義をもたらしたという指摘も実感を持って理解できる。
が、この本が取り上げている半世紀前後の間、一面では「道路は票になるが住宅は票にならない」という見方がずっと続いてきたのも事実だ。
そうしたことを思い起こすと、30年か40年ぐらい前に「カニだって自分の巣は自分で掘るのだから人間が自力で自分の家ぐらい手に入れなくてどうする」という議論をエラい人から聞いて、言いようもなく腹が立った昔の記憶がよみがえる。
銀行が相手にもしない住宅資金を国が貸す住宅金融公庫融資は年利五分五厘、今なら年利5.5%で180万円までだった時期が長く続いたのも、この本の「持家社会」の始まりだったことに思い当たる。
30年以上前の昭和50年代前半、産業連関表で住宅建設の景気刺激効果なるものが議論されるようになった。そのころから必要以上の予算がジャブジャブと回ってきた。その消化のために火事で焼けた家があったら消防庁に聞いてそこに公庫融資の住宅建設を勧めようではないかという押し込み貸しまがいの議論まであったことも、思い出す。
住宅の確保を「持つ」「借りる」という権利次元だけで考える視点でいいのか・・・
持家社会であろうとなかろうと、人が生きていく上で「住むための場所」は欠かせない。今、それが問われているからこそハウジングプアなどという言葉も生まれている。
住宅とは、いったい何なのか。住む場所の確保は、どういう考え方で保障されるべきなのか。「住む」ことの前提として「持つ」という権利概念がいったいどれほどの意味を持ち得るのか。疑問は、次から次へ果てしもなく浮かび上がってくる。
その疑問の大半は、いま500万戸をはるかに超えて空室も生まれ始めているマンションの管理をこれからも区分所有原則で考え続けていけるのかどうかに、そのままつながっていく。分譲マンションに賃貸化した住戸が珍しくないのは、持とうと借りようと、住まいの本質は変わらないことを物語っているとはいえまいか。いくつもの部屋があるファミリータイプの中古マンションに単身者が一人住まいする実情にギャップを感じないですむのか。持家社会という前提で供給されてきたマンションも、壊される日まで問題なく建ち続けるためには、管理の視点が再認識される必要はないのか。そうした問題の答えがどの方向で見つかるかは、この本に出てこない。
「住宅政策のどこが問題か〜〈持家社会〉の次を展望する」は曖昧なままだった問題を再認識させる刺激に満ちた本だが、答が見つからないままの課題もまた多い。
2009.05.15 Friday
新型インフルエンザが発生したマンションの光景を考えたことがありますか:対応の差はどこで生まれるかを検討しても無駄ではあるまい
マンションで新型インフルエンザが広がっても実情はかなり長い間わからないままだろう
新型インフルエンザのニュースが続く。
もし、この新型インフルエンザが国内に広がった場合、どういうことになるのか。そんな事態を経験したことがある人は誰もいないのだから神のみぞ知るということだろうが、インフルエンザがマンションで広がったらどうなるかという光景だけは想像がつく。
まず思い浮かぶのは、もし新型インフルエンザに罹った人がマンションにいても、その事実はかなり長い間そのマンションの誰にも気づかれないままだろうということだ。今度のインフルエンザは潜伏期間が1週間程度だそうだが、誰も気がつかない間にそれぐらいの日数はたちまち過ぎてしまうだろう。この想像は見当違いではあるまい。
そう考える理由は、こうだ。今どきのマンションに住む人は、できる限り誰とも付き合わず近所の人との接触を避けて暮らそうという感覚が強い。表札やネームプレートを出さないマンションが多いことを考えるだけで納得がいくだろう。名前を知らせるといっただけでやれ個人情報がどうだとか主張したがる風潮も、この感覚と無縁ではあるまい。今度のインフルエンザはどういうわけだか若い人の方が罹りやすいらしいから、こうした生活感覚の人ほどインフルエンザにかかる可能性が大きいことになりはしまいか。
もともとインフルエンザに限らず、病気に罹ること自体、個人レベルの問題である。だから自分の名前さえ知らせたがらない風潮が強い中で、わざわざ病気に罹ったなどという個人レベルの問題を誰かに知らせることなどこうした人たちには考えも及ぶまい。
インフルエンザに罹らない方にも、気になる点がある。いまだにマンションの管理組合には区分所有原則で考えないと落ち着かない発想が根強い。区分所有者でなければマンション管理ルールの適用外だと考えて手を出したがらないし、またその方が無難だと考える傾向がある。これは、もう何十年もの間、日本中の分譲マンションに浸透している傾向だ。
だからこそ、ゴミの問題もペットの問題も、管理組合にはなかなか答が見つからない。高齢化の問題も、治安の問題も同じだ。その中で、インフルエンザだけがこうした傾向の例外であるはずがない。
そうなれば、インフルエンザが広がっても罹った本人は決して人に言わない、管理組合も気にしながら手を出さない・・ということになる。
が、マンションは集合住宅だから、一枚の壁や床を隔てただけの超至近距離で多くの人が暮らしている。多数の人が同じ生活条件を共有しているのだから、何かあればその影響は短時日でマンション中にひろがる。新型インフルエンザが、こうした状況で拡大しないとはまず考えられないだろう。
これだけのことが考えられるなら何か手を打つべきでは・・・・
・・・と、毎日ニュースを聞きながら思うのだが、そんなことはいまだに聞きもしないし、見もしない。しかし、こうなる可能性は十二分にありうる。
マンションに住んでいた人が隣のまた隣の住人に殺されてバラバラにされたとか、隣から毒蛇が入ってきたとか、昔は想像したこともなかったようなことがいまあちこちのマンションで起こっている。でも、バラバラ殺人の犯人や毒蛇マニアがマンションに住むなどということは、例外中の例外だろう。
が、新型インフルエンザは違う。普通の人なら誰でも罹る可能性があるのだ。だからこそ、気をつけろと偉い人もマスコミも繰り返し言っているではないか。
とすれば、感染機会の多い集合住宅でも何か考えておく方がいいのではないか。区分所有原則を知らなくても、考えられることや手をつけられることはたくさんあるのだし・・・。
たぶん、それは常識的な生活感覚の再確認だろう。例えば、同じマンションに住む人の名前や年齢に始まって、ある程度の生活状態を知らせあうとか、病気に罹ったときの医療機関情報を管理組合が知らせるとかいった話になる。区分所有法第何条の解釈や判例がどうだとかいうことはまったく苦手な人でも、この程度のことなら説明抜きで通用するし実行できる。・・・のではないか。
現実に多くの人が住んでいるマンションで、まず一番身近な生活感覚の再点検に取り掛かることがインフルエンザ対策のインフラになるのではないか・・・。
そういうふうに考えないと、この問題は受け止めようがないような気がする。