村井忠夫のマンション管理ブログ

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【44年の実感で「マンションの管理」を考える 35】わかっているが何も言わない「そのほか多数」が実際には管理組合を動かす

マンションに40年以上住んでいながら管理組合の集会では一度も会わない人って実はけっこう多いよね

 マンションに竣工以来ずっと住んできた人は、もちろんほかに何人もいる。長年住んでくれば会う機会も多くなるからそれなりに顔見知りになるし、お互いの名前や仕事などもそこそこにわかるようになる。

 そのわかり方も、玄関やエレベータ―などで出会った時の短い会話を重ねるたびに回を追って少しずつ深くなっていく。その過程でお互いの共通点があればお互いの認識レベルはさらに大きくなり、時としては普段着の生活で交わした会話から、思いがけなく通じあえる言葉の感覚さえもわかるようになる。

 マンションに住んでお互いが知りあうプロセスは、こんな感じではないだろうか。

 40年以上も住んできて知り合うようになったのは、こういう感じの人ばかりだ。向こうのことをこちらは一応知っているし、向こうもこちらのことをだいたい知っている。たまに会うと断片的な話をするが、その場限りの、どっちでもいいことをお互いに承知の上だ。「じゃ、またね・・」と別れるまでのごく短い時間に声を交わして付き合いを確かめあった、ほんのわずかな安心感が残る。

 マンションで住人同士が会った時の感じは、普通は、まぁ、こんなものだろう。

 もちろん、この感じが逆向きの場合もあるのだが・・・。
                   ☆
 しかし、こういう感じで「知っている」人の中に管理組合の集会ではめったに出会わない人が何人もいる。会えばいつも愛想よく声をかけるし、冗談交じりの世間話もするのに、総会とか説明会などの会場で顔を合わせることはほとんどない・・・。

 そういう人がいる、何人も。

管理組合?「え、何それ」という人と「わかってますよ」という人も一枚の壁を隔てただけで同じ建物に住むのは同じなのに・・・

 しかし、こういう人たちも同じマンションに住んでいる以上、何かを決めるときにはちゃんと集会の場所にいるものとして考えなければならない。実際には決める場所に出てきたためしがないのに、そう考えなければならない。

 こうして、「いない」も同然なのに無視できない、きちんとという厄介な存在感だけが間違いなくはっきりしてくる。

 だから、決める場所に出てこないことは百も二百も承知していながら、「決める」仕組みへの参加手段だけは確実に用意しておかなければならない。

 管理組合は、問題に対応するときに、マンションが「わかっている人」と「わかっていない人」を区別できない世界であることをつねに忘れてはならないのだ。

 何かにつけて必要となる管理組合の意思決定で委任状の存在が重大になる理由は、まさしくここにある。「わかっているかどうかがわからない人たち」を必ず視野に入れないとマンションの管理は実現できない。管理組合で物事を決めることが形だけになってしまい、決めたことを実行できなくなるからだ。

「わかっているかどうかがわからない」人たちが黙ったまま胸の中で何を考えているのだろうかという不安感

 同じマンションでも一つのことについてのわかり方は、実は人の数だけ違う。

 ずっと昔、マンションができたばかりのころは一億総中流だのマイホームだのという言葉が説明抜きで通用したから、考えていることは誰も同じだった。パパがいて、ママがいて、その真ん中にボクがいて・・・。土曜日だってまだ休みではなかったが、みんな同じようなものを食べ、同じような話で泣いたり喜んだり・・・。

 今の管理規約は、そんな時代にできたものが基本形ではないのか。法律談義の議論を重ねて部分的な手直しを繰り返しても元々の姿は遠い昔のまま。そんな状態が水の底に残っているような・・・。

 今では、もう中古マンションとして住むようになった人が圧倒的多数になったのに・・・。

 同じ言葉で語られたことでも聞く人によって、意味の受け取り方はまるで違う。同じような言い方であっても、年齢や仕事やライフスタイルの差によって人の数だけ受け止め方はそれぞれに違う・・・。

でも、大抵の人は、何か言うわけではない。胸の中はみんな違うはずだと思うのだが、誰かが何か言うわけでもない。ただ、もう黙ったまま。多くの人たちの不気味なこの沈黙が、管理組合に影を落としているような気がする。

「管理組合って一体、何?」と聞かれたらどう答えるか。「区分所有者の団体」という答えは今も昔ながらに説得力を持つのか

 マンションが多くの人が生活条件を共有する空間だという本質は、昔も今も変わらない。でも、マンションが住宅として持つ本質は同じであっても。その本質の現れ方は人間次第だ。何か月も何年もに渡って住んでいる人間の今の様子によって「住む」ための建物という本質は違った姿で現れる。

 住み始めたときのパパはすでに世を去ってボクはいま外国、老いたママが後に残って一人暮らしという住戸が多くなった時代に、管理組合は区分所有者の団体だという考え方でいいのか。管理組合は区分所有者の団体だから「持つ」ことだけが要点であって、「住む」という条件を「持つ」ことに重ねる必要はないのか。

 100戸足らずのマンションが多いエリアに超高層大規模マンションが生まれたら、適用対象が増加しても同じままの理屈で管理組合が今も成り立つのか。

 外国人が珍しくない時代に管理組合が組織として動く場合の言葉は、やたらに多い漢字と、主語述語の見極めさえ難しいほど日常感覚と離れた法律文感覚が集合住宅の隅々まで通用するのか。

 あれこれ考えるほど、長い年月の経過という事実を前にして管理組合がどの程度まで当事者能力を持てるのか。今のままの理屈で、これからの管理組合は大丈夫なのか。今の経営感覚で、管理会社はそうした管理組合の当事者能力維持をサポートできるのか。

 過ぎた昔に建てられたマンションの光景は、いま住んでいる人間次第で決まることは昔から果たしてどこまで理解されてきたのか。

 多くの人に関係するとはいっても、その中で何も言わずに黙ったままの人が多ければ、はるかな昔にできた手続きの正当性だけでその不安を乗り切れるのか。

  もう、やめよう。 今月1日は87回目の誕生日だった。このマンションで迎える誕生日も、もう44回目になった。

 でも、心境は複雑である。

| muraitadao | コラム | 08:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 34】マンション管理組合の広報イメージはこれからも今のままで大丈夫なのか

新聞はもはや古臭い過去の情報源になり始めたのか・・・

 10月は新聞週間のある月だが、そんなことに気がついている人はもう激減しているのではないか。

 「新聞を読んだ」「新聞に出ていた」という言い方が、どことなく時代遅れめいた古臭い感じになってきたような気がする。

 マンションに住んでいると、毎朝ドアを開けてよその住戸の様子をちょっと見ただけで今どきの新聞購読者の激減ぶりがよくわかる。

 以前は壮観な感じがするほど大半の住戸ごとにずらりと朝刊が差し込まれていたのに、もうそんな光景はない。今では、新聞を差し込まれた住戸はほんの数戸しかない。毎月1回の古新聞回収日、玄関前に置かれた古新聞の束の数も僅かで、新聞の減り方が月ごとにはっきりしていく。

 午後4時過ぎのころエレベーターで乗り合わせた新聞配達員らしい人が持っている夕刊の束を見ても、もう本当に「小脇に挟んでいる」という程度の少なさだ。

 たまに乗る電車の車内風景でも、新聞を広げている人はもう見かけなくなった。座席の人も吊革の人も、ただ、もうスマホばかり。

 かく言うわが身も、以前とは違ってきた。

 何かを知ろうとする時、以前なら「新聞に出ているだろうか」とか「新聞はどう書いているか」と反射的に考えたものだが、今では、もうそんなこともなくなった。

 机に向かっているときはつけっぱなしのラジオが聞こえてくるし、リビングに行けば四六時中テレビがついている。

 新聞をあらためて読み直すことは、もう滅多にない。

 結局、新聞は2紙を1時間から1時間半ぐらいかけて全紙面の半分ぐらいを読む程度で終わる。一度、目を通した新聞をまた読み直して確かめることはまったくない。

 10年以上前までは、毎日のスクラップが一仕事だった。切り抜きの整理がまた一苦労だったし半年ごとの整理も厄介だった。

 でも、座り込んで独自に分類したスクラップを今の目で見直していくと、新聞が伝えようとしてきたことが情報の流れとなって見えてくる。

 そうしたプロセスで読み取れた情報の意味は、想像以上に大きかった。

 その実感は、今月で87歳になったこの身体に間違いなく染みついている。一方で、古臭さの実感もあるのだが・・・。

 あれこれ考えるにつけ、新聞は古臭くなってきたとはいえ、まだまだ手離せない情報源だという気がしてくる。

新聞を読むたびに天下り役人だった昔の上役をふと思い出すことが多いのはどうしてだろうか

 だが、一方で、もう一つの実感が湧いてくるのも否定できない。言葉で説明することが難しいのだが、あえて書くと次のようになりそうだ。

 大抵の場合、読むことの一つ一つが「確かにそうだ」と思わせるような理屈がきちんと成り立っているし、読者の実感と照らし合わせても間違ってはいない。

 しかし、書かれていることを読んでいるこちらが直面しているリアルなケースのあれこれに当てはめてみると「では、どうしたらいいのか」という具体的なことは何も見えてこない。書いてあることは確かに「わかる」のだが、「わかったからやれる」とは限らない。わかっても目の前のことをどうにかするために「何をやれるか」という点につながらないのだ。

 このもどかしさは、ずいぶん昔、住宅金融公庫で多くの人に向かい合っていたころ天下りの上役が口にしていた言葉のあれこれを思い出させる。こちらが来る日も来る日も向かい合っているのはまさに応用問題だから、答の出し方はその都度違う。でも、短い時間で何とかしてその答えを見つけなければならなかった。

 その難しさが、いつも苦労のタネだった。

 天下りの上役がそう言うときにわかった顔で並べる理屈は、どんな場合にも通用するものばかりだった。確かにそうなのだが、「では、こういうときはどうするか」という肝心かなめのことになると、もう何も言わない。

 知識としての理屈が、問題に直面した人間の求める個別条件のレベルでは効果を発揮する有効な情報とならない無力感があった。理屈で固まった総論が個別ケースに対応できる応用問題を解く鍵にならないのだ。
                   ☆
 このもどかしさに似た感じが、新聞にあるといったら言い過ぎだろうか。毎月の購読料4000円ぐらいを払って付き合ってきたのに・・と思うのだが。

マンション管理の盲点・広報が新聞を事実上のよりどころとしてきた状況は今も・・

 マンション管理では、今も相変わらず広報が盲点のまま残されている。

 大勢の人が居住条件を共有しながら住むマンションで望ましいレベルの管理を確保するための情報発信は欠かせないから広報は間違いなく管理組合の組織維持を左右する基本条件の一つなのだが、管理組合向けに有効な広報活動のための情報が送り出された試しがない。

 だから、法律論に熱をあげる人ばかりで広報を語る人は滅多にいない。

 そんな状態だから、何かを知らせる必要にいつも迫られ続けている管理組合は、有効な情報が何もないまま、自分たちの知恵で何とかしなければならなくなる。

 しかし、管理組合は組織運営の素人集団だから、何とかしなければとは思っても、具体的な取り組み方がわからない。

 そこで、大抵の管理組合はなけなしの知恵を傾けて、おぼつかない感覚の広報を進めようとする。

 こう言うときに、情報発信に不慣れな管理組合が《知らせ方の目安》として考えるのが、新聞である。

 しかし、実は、そういうふうに思っているのは年配層の管理組合役員だけであって、知らされる方の立場ではもう新聞を読んでいない人が大半なのだ。

 「知らせる」立場と「知らされる立場」の間に、こういうギャップが生まれているのだが、そのギャップはそれほど気づかれていないことが多い。

 そこで、どうなるか。

 知らせ方に慣れていない管理組合が、不慣れなまま「これなら大抵の人に知らせられるはず」と考えて発行する広報は新聞スタイルになる。

 しかし、イメージのモデルに想定される新聞は、今もそれほどのものになってはいない。情報発信側は経験もないまま費用と時間とエネルギーを傾けて何かを知らせようとするのに、肝心の居住者、区分所有者には有効に情報が届く見込みが極めて薄いという状態が生まれる。

 こんな状態が生まれる理由の一つは、今もなお新聞が《何かを知らせる》情報の有効手段として想定されているからではあるまいか。

| muraitadao | コラム | 09:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 33】マンション管理を支える仕組みは「人とつながって住む」気づきだと知っている人はどのくらいいるか

マンションがホテルと違うのは「泊まる」のではなくて「住む」ところだからだが・・・

 大きな建物の一部屋をある日数にわたって自分だけが使うという意味で、ホテルとマンションはちょっと似ている。その証拠に、リッチな有名人のホテル住まいの話は、よく聞く。

 だからと言って、マンションもホテルも似たようなものとは言えない。壁や床を隔てただけで名前も知らないよその人と同じ建物の中で幾日も過ごすのだからマンションもホテルも同じようなものさ・・・というふうに、さもわかったような顔で、わかったような口をきかれては、迷惑この上ない。

 わかりきったことを百も二百も承知の上で、あえて書く。

 ホテルは「泊まる」ところだが、マンションは「住む」ところだからという点が、この二つの言葉の勘違いにこだわる理由だ。

 こだわりついでに、国語辞典を開いてみた。「広辞苑」「大辞林」「新明舞国語辞典」「岩波国語辞典」の4種。どれも刊行中の最新版だが、以下のように書かれている。なお、旧版でも特に説明の仕方は変わっていない。

住む
【大辞林】所を定めて,そこで生活する。 «住» 「町に ─ ・ む」
【広辞苑】居を定めてそこで生活する。すまう。
【岩波国語辞典】所を定めて,そこで生活する。 「東京に――」「マンションにー―」
【新明解国語辞典】[人が]決まった場所で暮らす。

泊まる 
【大辞林】 自分の家以外の所で夜を明かす。 「もう遅いから ─ ・ っていきなさい」
【広辞苑】(居を定めて)滞在する。住みつく。
【岩波国語辞典】ある期間そこに宿る。 「ホテルに――」
【新明解国語辞典】自分の家以外の所で、夜を過ごす。

自分の日常がほかの人との関わりに支えられているという気づきがマンション住まいのセンスをありありと浮かび上がらせる・・

 「泊まる」「住む」という二つの言葉を並べてみると、何となく気になる点がいくつか浮かび上がってくる。

 どちらにも共通しているのは、建物の一部分を自分だけで使う意味になる点だ。どんな建物で、「誰が」という具体的な条件は全く関係しない。

 この言葉が当てはまるのは、それなりの規模の建物の一部分を想定したシーンである。くどさを承知の上で重ねて書くが、建物の全体ではない。

 「泊まる人」であれ「住む人」であれ、この言葉の主語となる人物は、何らかの意味で建物全体に関わらざるを得ない状況の中にいるのだ。

 だから、もしも全体との関わりを拒否するなら、その建物から「出る」しかない。ホテルにせよマンションにせよ、「泊まる」こと「住む」ことによって自分以外の人たちと一緒になる世界に関わることを最初から承知していることになる。

 これは、長距離バスに乗るのと同じ状況だといえるかもしれない。目的地まで乗ったら、後は、着くまでの時間をほかの乗客と同じ共通条件に直面しながら過ごすことになる。同じバスで同じ目的地まで同じ条件を共有する形で、ほかの人と否応なく関わりあうわけだ。

 ホテルの場合にも、同じようなことが言えるだろう。

 マンションに住む場合も・・・。
「マンションはホテルと同じ」なんて言わなくてもホントはどうなのか。黙ったままの人がどうなのかはかわかりようがない・・・

 いつも気づいているかどうかに関わりなく、事実上、大抵の人は本音をそのまま表に出したりしないで暮らしている。だから、黙っているときに何を考えているのかは必ずしも明らかではないが、ある程度までわからないころを推測しながら暮らしている。あいまい至極だが、世間という言葉が使われるときには、事実上こんな感じが漂うのは誰にも否定できまい。

 マンションがこういう生活感覚の世界であることも間違いない。

 法律だけやたらに詳しい人が、管理組合では必ずしも説得力を持たない理由も、ここにある。逆に、法律なんぞどうにでも・・・という本音丸出しが管理組合で通用しない理由でもある。

 管理組合が、どことなくあいまいな気分を持つ世界である理由は、たぶん、この点と関わりがあるだろう。
                   ☆
 であるならば、マンションなんてホテルと同じようなものさ・・と思っている人がいても、そういうことを口に出す人はいないのが普通だろう。

 だから、逆に「そんなことを言う人が一人もいない」から「そんなことを考えている人はいない」はずだ・・と、言えるかどうか。

 ホントのところは、わからない。

 「マンションはホテルと同じ」などとはまさか考えていまいと思うのだが、黙ったままの人がみんなそうなのかどうか・・・。

 黙ったままの人が、ホントはどう考えているのか。管理組合の実情の見極めにくさがこの点と大きく関わっていそうな実感は無視できない気がする。

 何も言わないまま、黙っている人は、どう考えているのか。

 名前と顔だけしかわからないあの人たちは、どんな意見を持っているのだろうか。

 名簿には載っていても総会に来たことがないあの人たちの本音はどうなのか。
                   ☆
 黙っている人の考え方がどうなっているのか。手続きさえ揃えば「どうにかなる」可能性が、実は、管理組合組織を支えていることも事実だろう。

 黙ったままの人が多い状態への向き合い方も、手続きによって正当化される。総会で物事を決める手法をあげるまでもいない・・・。
                   ☆
 ホテルで黙ったままでも別にどうということはない。しかし、マンションでは、そうならない。
                   ☆
 黙ったままの状態をどう考えるかという点で、マンションとホテルは、まるで違うのだから。

| muraitadao | コラム | 14:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 32】45年間住んでくると エレベーターでマンションがわかるようになる。住んでいる人の様子も、管理組合のことも、管理会社のことも・・・

マンションのエレベータ―は「人は様々、十人十色」を永遠に実感し続ける空間ではないか

 マンションのエレベーターで、誰かと二人っきりになることがある。ほんの短い時間だが、誰かと密室の時間を共有することになる。

 45年間、住んできた11階。エレベーターに乗る時間はせいぜい1分足らずだから気になるほどの長さではないのだが、同じところに住む人間同士にとって、エレベーターは住み手としてお互いの顔を合わせる場所でもある。

 最上階に住んでいるから、途中階から乗り降りする人の顔ぶれで長年にわたる住み手の様子の一端もわかる。

 いつも見かける人と乗り合わせた後しばらくたって、エレベーターを降りてから「そう言えば、あの人、このごろ見かけないな」という感じで、会うことがなくなった人のことに気づく時もある。逆に、初めて見かけるようになった人の名前が気になって尋ねたりすることや、いつもと違う時間に乗り合わせて久しぶりに会った人もいるし、見慣れない人と一緒になることもたびたびある。

 10戸近い棟で4基あるエレベーターの一つを毎日のように利用してきた実感は、いつも、乗り合わせた人たちの記憶に重なる。

 その記憶は、「いろんな人がいる」という平凡だが、否定しようもない実感と確実につながっていく。
                   ☆
 エレベーターに乗って頭に浮かぶ「いろんな人がいる」という感想は、やがて「いろんな人がいた」という過去の追憶につながっていく。この頃は何かにつけて、マンションに住んできた長い年月を何となく思い起こすことが多い。

「十人十色」の意味が今までと違ってきた。「昨年の十人」は「今年の十人」と違うから「十色」の色合いが違う

 でも「いろんな人がいる」といっても、昨年の「いろんな人」は今年の「いろんな人」とは違う。「いろんな人」の顔ぶれは年とともに変わるのだから。

 いろんな人がいるから、十人十色になる。

 マンションは、まぎれもなく十人十色の世界。

 おまけに、いつも入れ替わる十人十色の世界。

 さらに、去年の十人と今年の十人が変わる世界。

 顔ぶれが変わらなくても、確実に、誰も齢をとる。齢を重ねれば、どうしても人の様子は変わる。

 会った人の様子が変わった分だけ、こちらも様子が変わっているはず。自分で気がつかなくても、たぶん自分の思っている以上に変わっているはず。

 去年の十人は今年の十人と違うし、今年の十人は来年の十人にはならない。
                   ☆
 以前は、「住まい」という言葉や住む人に何となく定型化、もっと言えば画一化されたイメージがあった。説明抜きで「マイホーム」という言葉が説明抜きで同じ光景を描き出せた時代があった。

 パパがいて、ママがいて、ボクがいて・・・というシーンで住宅業界のCMがつくれた。

 ハウスメーカーも、商品のイメージはそうした発想を前提としていたと思う。

 たぶん、そこはマンションも同じだっただろう。

 だから、いま600万戸を超えるマンションの大半にもそんなイメージでできた物件がかなりあるはずだ。

 DKとかDLKなどという言葉も集合住宅の歴史の中で生まれたのだから。

 マイホーム、終の棲家、核家族・・・。

 ある程度の年数がたったマンションでは、そういうイメージが重なる人とそんなことにはまったく無縁な人とが、いま隣り合わせて住んでいる。

 人には、それぞれに年齢相応の住居歴がある。マンションに住む人にも、それぞれ全く異なる住居歴がある。

 しかし、しばらく前まで、めったにそんなことを考えりしなかった。

 だが、この頃は違う。・・・
                   ☆
 エレベーターに乗った時、漠然とそう思うことが多くなってきた。

| muraitadao | コラム | 10:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 31】「相談」という言葉に隠れた情報発信の重い意味に気づいている人はどのくらいいるだろうか

仕事としての「相談」の意味を《道を聞かれて答える》レベルの軽いものと勘違いしてはならない!

 住宅の世界に関わるようになったのは63年前の8月。発足して5年目の住宅金融公庫に入った時からである。戦後10年が過ぎたばかりで430万戸の住宅不足がまだ切実な時代だった。そんな頃から800万戸を超える空き家続出時代まで半世紀以上の歳月の流れを、いろいろな角度からずっと目の当たりに確かめ続けてきたことになる。

 思い出すこと語りたいことは山ほどあるが、やめておく。

 しかし、一つだけ書いておきたい。それは、仕事で何度も「相談」をする部門に携わった時の実感経験だ。

 「相談」は、いろいろなことをかかえた人に面と向き合う仕事である。そういう仕事に何度も関わってくると、いろいろな人の口から様々な話を聞いてきたという確かな実感を記憶することになる。

 当然ながら、相談窓口にやってくる人は誰もが「聞いてほしいこと」をいっぱい抱えている。どうしても聞いてもらわなければ困るからこそ相談窓口に足を運んでくるのは、治したい病気があるから病院に行くのとまったく変わらない。

 その意味で、相談に来る人たちから聞く話は、間違いなく本や新聞・雑誌では決してわからない現実感にあふれるようなことばかりだった。

 どんな分野であれ、相談は、一対一の対話という形で展開する。どっちでもいいような話なら、わざわざ相談したくて足を運んでくるはずがない。切羽詰まって聞いてほしいことがあるからこその対話が相談なのだ。

 だが、大抵は聞く方も聞かれる方も初対面だ。目の前にいるのはどんな人なのか、会ったばかりで名前すらわからない状態でも、相談に乗る方は、目の前の相手がまず《いま、ぶつかっている問題は、いったい何なのか》を口に出して余すところなく語り終えるまでじっと聞いていなければならない。決して、口を挟まずに・・。

 対話の流れが《どうしたらいいか》という方向に向かうのは、すべてその後なのだから。

 聞かれたことによっては答えが見つからない場合も珍しくない。そんな時には、いっしょに答探しをする覚悟がこちらにも必要となる。

 相談でやり取りする言葉が、そのまま質問者の判断の手がかりとなり、その判断の結果はもしかすると長い年月に影を落とすかもしれないが、相談を求められている自分が答えられそうもない・・と気がついても決して逃げてはならない。

 ここからは、一緒に答探しに付き合うという感覚が必要になる。
                   ☆
 住まいの問題の相談は《つくりごとのお話》ではない。儲けて利益を得るための資産として住宅を手に入れようとする人なら、もともと相談などしてこない。損得に目ざとい人は、口に出さず黙ったまま自分で答えを見つける心得があるのだから。

 そこに気づいたのも、相談の実感だった。
                   ☆
 だが、答えが見つからないままの相談であっても、そうした相談が何も役に立たなかったということには決してならない。今でも、そう思う。

 てきぱきしたやり取りとは程遠いボソボソした対話であっても、相談に来た人は、何とかして自分の言葉で少しずつ質問し続けているうちに、当の質問者自身が何となく自分でも気づかぬうちに、頭の中でもやもやとぼんやりしていた考え方がだんだん整理されてくる感じになるからだ。

 その実感がわいてくる程度の時間が経過すると、ほかならぬ相談に答える方も相手に通じる言葉や言い方をつかめてくる。この人にはこんな言い方が向きそうだとか、こう話せばいいのではないか、という感じで。

 そんな過程をたどるうちに、答えが見つかりそうな方向に近づくことはとても多い。
                   ☆
 まず、口に出して《話してみる》ということがどれほど有効か・・。その実感の積み重ねが、少しずつ相談者の力量や努力に支えられる対話の意味を固めていくことがわかったころ、33年間の住宅金融公庫の定年を迎えた。

「相談には人の数だけ答がある」こと、「その答は人に通じる言葉で語られてこそ意味がある」という確信がその後の人生を支えてきてくれた・・

 定年を迎えたとき、この思いはほとんど確信的に固まっていた。

 住宅の問題は、どんな意味であれ、きわめて現実的な問題である。だから、何とかして答えを見つけなければならない問題だ。

 住宅を語るときに言葉と理屈が必要になるのは、そうした意味で答えを確かめる必要があるからだ。当然ながら、その言葉や理屈は誰にでも通じるものでなければならない。

 これは、住宅に関するすべてのことに言えるし。個人であろうと業界人であろうと、役人であろうと学者であろうと、ジャーナリストであろうと全く変わらない。

 住宅について考え、語り、書くことは、どんな意味ででも独りよがりになってはならないのだ。

 自分が発信者になる情報の言葉や理屈は、すべて受け入れられるかどうかで意味が問われる。
                   ☆
 こうしたことを確信的に考え始めたことが「住宅評論家」というクレジットを使うようになったきっかけだった。

| muraitadao | コラム | 12:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
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