村井忠夫のマンション管理ブログ

村井忠夫のマンション管理ブログ
【語り尽くされていないこと、見逃されていること58:投票】YESかNOかをたった1枚で意思表示する仕組みの意味を考える

棄権したことなんか一度もないが、弾む気持ちで投票所へ出かけたこともほとんどない

 都議選挙が告示された。

 いままで一度も棄権したことはないから、7月2日には必ず投票するつもりだ。

 だが、考えてみると、65年の間、選挙で自分の意思表示ができる機会に恵まれた充実感や気分の高揚を経験したことは、ほとんどない。

 選挙が告示されれば、もちろんいつも投票に行く気持ちになっている。

 だが、気が進まないのを我慢して嫌々ながら投票所へ足を運ぶというほどではないものの、《この一票》の重さを確かめるのとは程遠い気分だ。《とにかく投票だけはしなければ・・・》という名状しがたい低迷すれすれの気分は否定できない。

 いつも選挙結果のニュースでは、当落の結果よりも、いったいどのくらいの人が投票所に出かけたのかという投票率の方がはるかに気にかかる。

 だから、当選者が躍り上がってバンザイを叫んだり《国民の皆様の信頼にこたえます》などと興奮気味に語る政治家を見ると、冷え冷えとして醒めた気分になる。

 あれほどの低い投票率で当選したのだから、『支持した人』よりも『支持したかどうかわからなかった人』の方が間違いなく多かったのに、よくも、まぁ、あれほど有頂天になれるものだな・・と思う。

 選挙という仕組みの意味は《適任者を数で決める》点にあるのだから、投票率が低ければ《適任者とみなされたかどうかがわからない》人の割合がそれなりのレベルになっていることははっきりしている。いちばん肝心なことが確かめられていない状態のまま《決まった》ことになってしまう割り切れなさが後を引くことになる。

 さらに《支持した》場合も、選挙の時に投票した人が考えていたとおりに当選者が本当に役割を果たすかどうかは、確かめようがない。すべては、これからだ。当選した後の様子を断片的なニュースなどで見るしか方法がない。

 すべては《支持して投票した人の手が届かないところ》で当選者がやることや言うことを見ているだけだ。橋がない大きな川の向こう側の光景をなすすべもなく見つめ続ける気分に近い。

 もう、やめよう。何だかむなしい気分になってきた。
                   ☆
 今度の都議会議員選挙がそうならないなどということはあり得ない。

 でも、今更それを気にしたって仕方がない。どうなるものでもない。

 だから、7月2日の投票には必ず行く。

投票用紙に名前を書いた人が明日から何をするかがどこまで見通せるか…

 考えてみると、選挙とか投票という仕組みには、わかったようで実はよくわからないところがある。投票用紙に「名前を書く」ことは「その人の考え方を納得して任せる」信任行為だということにはなっても実際にそうなるとは限らないからだ。

 投票用紙に名前を書くのは、その人の過去の評価ではなくて、あくまでも選挙時点で、これからの役割を実現してくれる可能性の予測なのだ。いわば、その候補者が「考えてくれそうなこと」「やってくれそうなこと」という期待が含まれた予想を一枚の紙に託して投票することになるのだが、本当のところ、予想は予想でしかない。

 ただ、その予想は候補者の経歴とか公約とかを手掛かりにしものとなる。

 絵にかいたような経歴のエリート官僚出身の、さも有能そうな人物が当選した後、人の目に見えないところで聞くに堪えないほど口汚い罵詈讒謗(ばりざんぼう)を重ねるなどということは誰も予想しない。

 手掛かりとしてわかることが「何とか大学を卒業して何とか省のエリートだった」とかいう経歴だけで、その人物の人間性については何も手がかりがない状態でもそれは誰も気にしない。素晴らしいキャリアの人が口汚く金切り声で狂乱状態になって当たり散らすなどとは、誰も予想しない。

 でも、実際には、予想しなかったようなことが起こる。

 そうした形で、予想はやはり予想でしかなかったことを思い知ることになる。

 選挙や投票の本質に隠れている予想という要素の読み切れなさを、今まで、もう何十年も選挙のたびに思い知らされ続けてきたよな気がする。

選挙、投票という仕組みの弱さ・マンションでは果たして大丈夫か

 選挙とか投票という仕組みに隠れている、こういう不安は、どんな場所であっても基本的には同じだろう。分譲マンション管理の仕組みの当事者となる管理組合の組織運営でも同じはずだ。

 ただ、少し違うのは、選挙とか投票という仕組みで投票が意思表示の手段として成り立つ前提である。どんな場合も、投票する人は誰もが《同じマンションに住んで生活条件を共有する》からだ。《ウチのマンション》という共通する生活条件が、マンション管理の仕組みでは選挙や投票に特有の意味を持たせることになる。

 しかし・・・。

 この前提は、同じマンションに住む人同士が、お互いに認識しあっている状態が実現していなければならない。なのに、顔と名前が一致しないとか、どんな仕事をしているのかわからないといった状態でこの前提が成り立つのか。

 わからなくなってきた。

| muraitadao | コラム | 11:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること57:マンション61年】四谷コーポラス建て替えのニュースで思い浮かぶ数限りない感慨

11年前このブログの第1回に「四谷コーポラス」のことをめぐる様々な思いを書いたのだが・・・

 「四谷コーポラス」が建替えられることになったという。《それがどうした?》などとは、誰にも言ってほしくない。

 11年前の2006年(平成18年)11月26日にスタートしたこのブログ第1回に、四谷コーポラスのことを書いた。そのときのタイトルは次のようなものだった。《民間分譲マンション半世紀の証人「四谷コーポラス」のことを誰も言わないから》。

 ブログを書くようになるまでの長年マンションや住宅ローンのことをいろいろ書いてはきたものの、ブログを書く感覚はまだ正直に言って呑み込めていなかった。

 そんな中で、書きながら、ふと、今月は11月だ・・、そういえば四谷コーポラス竣工の月だったな・・という連想が浮かんできて頭の中に浮かぶ言葉をそのまま字にする気分で書いた。

 思えば、このマンションのことをセミナーや講演会で話の枕にどのくらい使わせてもらってきたことか。原稿の前文に何回ぐらい書かせてもらってきたか。

 マンション管理に寄せる関心が深い人を四谷の現地に案内したこともある。

 マンションの原型を語るときには、いつもこのマンションのことが頭にあった。それもこれも、このマンションが敗戦後10年そこそこの時期の物件だったからだ。

 1956年(昭和31年)11月竣工。エレベーターなしの5階建て。《もはや戦後ではない》という経済白書の言葉が複雑な実感を生んだこの時代、233万円と156万円の28戸が三か月で完売。住宅ローンなどなかったが、信販会社(日本信販・現在の三菱UFJニコス)が分割払いで売り出した時の利率は元利均等返済で年12%だったと聞く。

 そんな時代に生まれたマンションが、61年間も建ち続けていた。

 驚くべきことではないか。

このマンション建て替えについて《誰も言わない》のは依然として今も同じか

 このブログの第1回で四谷コーポラスのことを書いた時のタイトルに「誰も言わないから」などとひねくれた言葉を入れたが、10年以上たった今も状況はあまり変わっていないようだ。

 四谷コーポラスの建て替え計画は、このマンションの管理組合ではなく建替え事業を担当する旭化成ホームズと旭化成不動産レジデンスの両社が連名で発表した。旭化成というそれなりの規模と歴史のある企業の系列会社の発表だから、管理組合独自の発表よりも情報発信力はあったと見ていいだろう。

 現に、この発表でそれなりのニュースを流したところもあった。しかし、それも業界紙を除けば毎日新聞の夕刊ぐらいで、大半のメディアは流さなかったと思う。どの新聞もテレビも役所の文書の忖度だの北朝鮮のミサイルだのばかりだったから。

 そのせいかどうか、マンション管理関係者の中でも、このニュースを知っていた人はあまり多くないような気がする。

 そんな中で、旭化成ホームズと旭化成不動産レジデンスのプレスリリースは、ありきたりの発表資料と違ってかなり中身が充実していた印象が強い。

 2017年5月30日付けのプレスリリースは7ページある。

 タイトルがやや長いが、そのまま紹介する。『1956年竣工・築61年、日本での民間分譲マンション第1号「四谷コーポラス」建て替えについて〜民間分譲マンションとして初めての管理運営や割賦販売の歴史も〜/〜区分所有者の9割が再建マンションを取得予定〜』

 本文には次のようなことが述べられている。

,海3月29日に管理組合の建て替え決議成立、5月に全員合意、9月に解体工事着手の経過であること。

△海離泪鵐轡腑鵑篭菠所有法以前に実現した管理方式で運営され、住宅ローン登場以前に割賦販売で売り出されたこと。

2006年から建て替え・大規模修繕工事の検討会がスタートしたが、耐震性、給排水設備老朽化などにより建て替え決議に至ったこと。

な件が小規模のため床面積増床のメリットはないが、立地の良さや愛着の強さがあって区分所有者の大半が再取得する前提で要望や想いに応える計画となったこと。

 この後、「機ゥ泪鵐轡腑鵑領鮖砲涼罎任了傭コーポラスの位置づけ」「供セ傭コーポラスの建物概要」が写真と表や図面を添えながら5ページ足らずのスペースで説明されている。

 最後に〈今後の情報公開とお願い〉と題して次のようなことが書かれている。

8月まではまだ住んでいる人に配慮して現地内外の撮影は遠慮してほしいこと。

9月の解体前にマスコミ向けの説明会や撮影会を予定していること。

7築研究者を含む一般向けの現地公開を検討中であること。
                   ☆
 正直な感想を書く。

 基本的に企業ベースでまとめられた資料だが、よく考えて工夫された内容になっていると思う。このマンションの建て替えについて書いたり語ったりする人の大半は61歳にはなっていないだろうから、このマンションができた時代背景など想像しにくいはずだ。その点を考えて、在来の建て替えとの違いを理解するための要点を過不足なく盛り込んでいるのがとてもいい。ただし、注文が二つある。

 一つは地図をぜひ添えてほしいこと。居住者の愛着とも関わる四谷本塩町(よつやほんしおちょう)のロケーションがこの建て替え計画と大きく関連しているからだ。

 二つ目は、居住者の思いなどを伝えられる工夫を今後の機会にぜひ考えてほしいこと。このマンションの建て替えに人の温もりを感じたいからである。

| muraitadao | コラム | 10:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること56:格差】生き残れない管理組合もある怖さに語り手たちは気づいているか!?

経済格差、地域格差、世代間格差…。当事者が抜け出せないから「格差」という言葉には辛い響きがある?

 このごろ「格差」という言葉の書名の本が多くなった。

 でも、経済格差とか社会格差とかいうレベルなら、まあ以前の《品格》本のような現象で本が売れてほしい一心の出版社の苦労の産物だと思うから、別にどうということはない。

 以前の品格ブームは「国家の品格」という本がやたらに売れたのがきっかけだった。国家に「品格」などという言葉が当てはまるのかという奇妙な違和感があったが、本はよく売れたらしい。その後、売れ行きほしさ丸出しの感じで「女性の品格」だの、「会社の品格」だの、果ては「遊びの品格」という類の本まで登場した。

 この分なら「出版社の品格」というのが出るかもしれないと楽しみにして待ち続けていたが、当てが外れた。自分のことに「品格」を付けるほどの浅ましさは、さすがの出版界にもなかったらしい。

 しかし、「格差」には「品格」よりももっとリアルな重い響きがある。

 「子ども格差」とか「美貌格差」「団塊格差」などという書名を聞くと、むき出しなほどの露骨さがあって何とも嫌な気分になるではないか。

 ともあれ、「格差」という言葉を使った書名の本が続々と出るのは「格差」という言葉が気になる人が多いという確かな背景があるからだと思い当る。

 自分の置かれた立場を何とかして抜け出したいのにそれが思うに任せない切実さを抱えた人が多いのだ。そういう人の多さに向けた出版界の視線が、こういう書名の本の向こう側に間違いなく浮かび上がってくる。

 あらためて思うが、「格差」は嫌な言葉だ。《他人(ひと)との違い》が気にもならなかった時代には、こんな言葉が流行ったりしなかった。

 昔、「一億総中流」などという言葉があった。もはや遠い過去の言葉になって、気がつくと、何かにつけてわが身を周りと比べる人が多い時代になり《他人と比べたわが身の違い》がことごとに気になるようになっていた・・・。

 それでも、しかし、その違いはどうにもできない。

 ただ、もう、ひたすら我慢するばかりだ。

 「格差」という言葉に特有の怖さが生まれる理由は、ここにある。だから、「格差」には「運命」に似た重くて辛い響きがある。

ストック戸数が増えたからマンションでも「格差」が気になり始めたことは何を物語るのか

 うっかりして気づくのが遅かったが、国交省はつい先ごろ国交省が発表した「分譲マンションストック戸数」によると、2016年末現在でのマンションは633.5万戸になるらしい。

 この5月29日号のAERAが掲載した「大特集・マンションを長生きさせる」という特集の最初に「無関心でボロボロに/他人事ではないマンション管理問題」という記事があった。その始めの方に《現在、分譲マンションの数は約613万戸。》と出ている。

 しかし、これは平成26年末現在の数字であって、最新のデータではない。

 せっかく力のこもったいい記事なのに、記者が最新の国交省発表に気づかなかったらしいのが惜しまれる。もし気づいていたら、国交省データには「築後30、40、50年超の分譲マンション数」というのがあるのだから、もっと掘り下げた記事になったのではないかという気がする。とても残念だ。

 いずれにしてもマンションがこれだけ多くなれば、どうしたって新旧大小の違いが生まれる。マンションにも「格差」という嫌な言葉が否応なしに持ち込まれざるを得ない時代が来たと思う。

わかっていないのに気づかぬまま勘違いだらけでマンション格差を論じられても迷惑千万!!!

 こうなると、最近見つけた本のことを書かなければならない。国交省がこれほどはっきりと高経年マンションの推計を示すほどなのだから、今や633万戸を上回るマンションでは新旧大小様々に異なる物件がまざまざと「格差」を実感させながら並ぶことになる。

 となれば、マンションごとの格差は今や目前の現実的な課題になっているのだ。

 これは少しも予想外ではない。もう20年以上前から機会あるごとに言い続けてきたことだが、最近、こうしたことを改めて表立って唱える本が出るようになった。

 「マンションは10年で買い替えなさい」だの「マンション格差」だの・・・。

 この手の本は、マンションの売買で儲かるように、損をしないようにという視点だけの産物だ。マンションが「住む」ための生活基盤だという視点は著者の念頭にまったくない。

 遺産相続のコツを語るコンサルタントや、マンション広告のコピーライター経験程度の持ち主には《マンションが住む場所》だという感覚があるはずもないのだから、当然といえば当然なのだが・・・。

 国交省が発表したデータによれば《1500万人を超える人が住むマンション》には様々な「格差」が現実に生まれている。マンションに住んだ感覚などそっちのけの損得勘定だけでマンションを考える手合いは、想像外のことだろうが・・・。

 わかってもいない人にわかった顔であれこれ言ってほしくない。

 気づくべき人に気づいてほしい。気づくべき人が気づかないと、打つ手が間に合わなくなる。

 だから、「格差」は怖いのだ。

| muraitadao | コラム | 08:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること55:戸数】これだけ新旧大小さまざまでもマンションストックがわかるのは戸数だけ?

気がついたらいつのまにか国交省のマンションストック戸数データが発表されていた

 《いま日本にはマンションがどのくらい建っているのか》という極めてシンプルでありふれたことを確かめられるデータはありそうで、実は、なかなか見つけにくい。

 だから、国交省が毎年発表する「分譲マンションストック戸数」データは、とても貴重である。毎年4月ごろ、前年12月31日の数字が公開される。ソースは建築着工統計。ストック戸数は《新規供給戸数の累積等を年末にまとめた推計》だという注があるが、唯一の全国データだから信頼度は高い。

 このデータはごく最近まで2015年(平成27年)末現在の数字しかわからなかった。つまり、一昨年の数字しかなかったことになるが、この時期だし国交省の都合もあるのだろうから・・・と思っていた。

 国交省は情報発信にはそれなりに熱心で、登録しておけば毎日夕刻から夜にかけて部外に公表した情報をネットで定期的にきちんと知らせてもらえる。この仕組みのおかげで、ずいぶんいろいろなことを知ることができた。

 昔の官僚感覚だったら考えられないサービスで、率直に感謝している。

 ・・・のだが、この春は4月が過ぎようとしても一昨年のデータのまま一向に変わらなかった。が、しかし、それはこちらが知らなかっただけだった。

 5月に入ってネットを見ていたら、いつの間にか新しい2016年(平成28年)末のデータが発表されていた。あれれと思った。

 それによれば、前回のデータは623万戸だったが、今回は633.5万戸。1年経っても10万戸増えた程度だったことがわかる。

今回は築後30〜50年超のストック数も発表された。そこまで考えてくれるなら棟数や階数も

 黙ったままオープンになったのを気がつかなかったのは、こちらの手抜かりだから、それは、仕方がない。

 しかし、今回は今までと違って「築後30、40、50年超の分譲マンション数」というのが発表された。「築30年超〜40年未満」「築40年超〜50年未満」「築50年超」の数字が5年後、10年後、20年後にわけた縦棒グラフは大まかだが、それだけにストレートな迫真性がある。

 問題提起的なデータとして貴重だと思う。

 そこで、ここまで考えてくれるのなら。ぜひ注文したいことがある。

 それは、マンションストックを戸数だけでなく、棟数、階数でも区分したデータがほしいという点だ。

 説明の必要もあるまい。

 ずいぶん前から標準管理規約は《単棟型》《団地型》《複合用途型》に分けてきた国交省なのだから、マンションの実情が複数棟かどうかで違うことはよく承知しているだろう。1棟だけを単棟と呼ぶ考え方では1棟が5階建てと30階建てでは実情が把握できないこともわかっているはずだ。

 これだけ大戸数の超高層マンションが増えているのだから。

 ならば、マンションストックを戸数だけで理解していいわけがない。データソースが建築着工統計なら、そういうことも可能ではないのか。

もう一つの注文・世帯で居住人口をとらえる発想は再点検した方がいい時期ではないか

 もう一つ注文がある。マンションが人が住んでこそ意味がある。マンションストックのリアルな意味が居住人口データと関連付けられて成り立つのは当然だ。

 だから国交省がいつもマンションストック戸数に居住人口を添える形で公表しているのは、適切なやり方だと思う。

 しかし、その居住人口を国勢調査データの数字で示す都市・地方の地域差がない単純な方法は、果たして妥当なのか。少子高齢化や非婚化が際立って進む都市型集合住宅であるマンションの居住実態をこの方法だけで確かめられるのか。

 住む人の実情が把握されていないと、マンション管理は実現が年ごとに難しくなる。管理組合の主体として法律が考える管理組合の組織的な当事者能力は衰弱するばかりだ。

 何も言わないまま、いつかは…と思っている管理組合現場の声が国交省に届くかどうかは、マンションストックに対応する居住人口データ把握が実現するかどうかで占えるような気がするのだが…。

| muraitadao | コラム | 04:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること54:賛否を問う】YESとNOは「誰に」なのか「何に」なのかで決めた後が大違い?

外国の選挙結果が他人事でなくなってきた理由はいったい何?

 フランスと韓国で、大統領選挙が終わった。アメリカでは、昨年の選挙で新しく大統領になった人物の言動が何かにつけて物議の種になっている・・・。

 外国の選挙が《遠いよその国》の話ではない感じになってきた。別にさしたる関心もないまま聞くともなしに聞いて、そのうち忘れてしまうのが普通だったが、今はちょっと違う。

 成り行き次第で、いつ、こちらに「とばっちり」が降りかかってこないとも限らないというホンのかすかな気がかりが、ニュースを聞く頭の後ろ側に浮かんでくる。

 あながち市井の一市民の取り越し苦労とも言えまい。

 よその国の選挙の話が気になるのには、そういう「とばっちり」の予感に似た感じが絡んでいるせいかもしれない。

 選挙とか国民投票、住民投票という物事を決める仕組みが世界共通になってきたために、手段の共通性が身近な現実感を生んでいるからだろうか。

 誰もがぶつかる厄介な課題。ほとんどの人が関心を持っているのに、意見が分かれて簡単にまとまらない・・・、どうしたらいいか・・・。いったい、みんなどう考えてるんだろう・・・。いっそ、もう聞いてみたら・・・。

 そこで、選挙とか住民投票や国民投票となる。そこまでいかなくても、世論調査やアンケートぐらいにはなるだろう。こんなこと、もうザラではないか。

 となれば、どんな方法であっても、結局のところ《賛成するかしないか》を数だけで確かめるのがいちばんいい。何しろ数には誰も文句をいえないのだから。

でも 何に「賛成か反対か」を問うた後には 途方もない怖さが待ち受けているかもしれない

 《賛成するかしないか》みんなの胸のうちを聞いてみようじゃないか、ということ自体には誰も逆らえない妥当性がある。その結果が数字になれば、もう説得力は絶対なのだから。

 でも、いったい、何に賛成するかしないか》と《誰に賛成するかしないか》とでは、意味がまるで違う。

 「何に」ならば、仕組みを変えることの是非を聞く住民投票や国民投票になる。この点は、大阪都制もEU離脱も変わらない。《物事の決め方を変えた場合、その結果の変わりようを受け入れるかどうか》で賛否が分かれてもめた話の成り行きが決まるのを誰もが承知しているのだから。

 「誰に」ついて問うのなら、選挙だ。「誰に」というのだから《判断を任せる人間の当否》を聞くことになる。

 住民投票や国民投票のように言葉でイメージを説明できることを聞くのなら、仕組みの変更を決めた結果起こることをある程度まで予想しながら賛否を確かめることができる。

 だが、選挙の方はここが違う。「候補となった人についての賛否」を問うのだから、選んだ人の人間性や判断力への信頼が大前提になる。いったん信頼する人を決めた後は、その人の判断には絶対に従わなければならないのだから。

 いまのアメリカがそうだし、これからフランスや韓国もそうなる。

 日本だって、そこは同じだ。

 でも、「何に」を聞くか「誰に」を聞くかの違いがあっても《賛成か反対か》を問われた人の数だけで結果を確かめる点は全く変わらない。方法が違っても「聞く」「答える」プロセスを数だけで展開する制度の構造は同じだからだ。

 選挙も国民投票も住民投票も、結局《問いかけられたことに投票して答える》形は同じであって、答えた結果が数だけに飲み込まれてしまう。老弱男女、強弱、貧富、賢愚、巧拙・・。答えた人を物語るそんな属性はみんな消え失せてわからなくなる。

 考えてみると、これは、とても怖いことではないか。

 その怖さを何とかしたければ、《[聞く]ことの説明に十分な手数をかけ「答える」べきことを考える時間を確保する》しかあるまい・・・・  

マンション管理の現実が「物事の決め方」にあることに現在のルールが対応できる限界が来ているか

 ・・・などと考えているうちに、マンションの管理組合では、この辺のことがいったいどうなんだろうといういつもながらの感想が浮かび上がってきた。

 感想は簡単だ。「選挙」とか「投票」などという手段に言い及ぶのを避けたまま、法的な有効性や賛否の確認手続きが比率によって示されているだけのルール。

 いちばん大事な点がすっぽり抜けて、手順と数字による結果の確認だけが法的な強制力に裏付けられてきたルール。

 《マンションが大邸宅》の意味だという博物館レベルのイメージで考えられていた時代の発想に支えられたルールが、ストック戸数600万戸を超え新旧大小高低、様々となった今も中心になる実情。

 マンションは動物園ではない。様々な人間が大勢集まって住むところだ。至近距離で異なった意見や考え方が絶えずぶつかり合い、誰かが折り合いを求められる世界だ。

 ならば、そうした厄介な実情をどうにかできそうな方向を探り当てて意見の違う者同士が同じ顔ぶれのまま住み続けるためのルールが欠かせなくなる。

 ・・・でも、ここから先はいつもと同じことになりかねない。またにしよう。

| muraitadao | コラム | 14:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること53:憲法】マンションは国、管理規約が憲法、総会は国会・・と説明できたよき時代

憲法が生まれて3年過ぎたころ朝鮮動乱が、その数日後に空襲警報が・・・

 4月末から5月にかけて北朝鮮のミサイルがどうだとかこうだとか、けっこう気になるニュースが続いている。

 そんな中で迎えた憲法70年の節目。

 憲法ができた時代。今にして思えば、本当に、もう何もない時代だった。

 テレビなど、まだ先の先。電話などもまだ身近なところにはなかった。いま何が起こっているのかを知る手がかりは新聞とラジオだけ。4ページぐらいしかない新聞と「NHK」といういいかたもなかったラジオが流す数分間の短いニュースしかなかった。ニュースの後に「尋ね人の時間」なんていうのもあったっけ・・・。

 そんなニュースには、やたらにGHQという字が出てきた。GHQ、つまり連合国軍最高司令部。だが、連合国といっても普段あちこちで目にするのはジープに乗ったアメリカ兵ばかりだった。

 手紙や葉書はすべて検閲されていた。名前さえ隠したがる人もいる個人情報過敏の現在では、とてももう理解不可能な仕組みが当たり前の感じだった。

 新憲法ができて2年ほどたった6月下旬に朝鮮動乱が起こった。「動乱」なんていうが、戦争じゃないか。ちょっと前の「事変」だってれっきとした戦争だったし・・などとと考えていた数日後の夜、空襲警報が出た。戦争は終わったはずなのに何でまた・・・。

 にわかにGHQという3文字がリアルになった。
 ・・・・・・・・・・・・・・
 きりがない。ここまでにしておこう。

マンションは「国」、総会は「国会」、管理規約は「憲法」・・という説明が納得できた

 昔々のことを考えているうちに思い出したのは、30年以上前、マンション管理がまだ本当に何もなくて手がかりも何もいない時代によく使われた言い方だった。

 《一つの建物に大勢の人が住むマンションを国のようなものだと考えれば、管理規約は憲法、総会は国会と同じです。⦆

 大抵のマンションはまだまだ新しくて管理がどうだなどと考える人はめったにいなかったが、そんな時代でも、マンションは建てられた時代に対応して間違いなく古びていくことに気づく人は、やはり、いた。そうした人たちは、長寿命のマンションで『管理』という課題にかけがえのない重みがあることをいつも考えていた。

 今にして思えば、そういう人たちは先見の明があったと実感する。しかし、その分だけ苦労が多かったことも間違いない。

 マンションの管理が組織レベルの集団的な課題である以上、管理の意味を自分一人だけが知っていてもまったく意味がない。自分の知っていることを実現するためには自分の周辺の人にも管理の意味の重さをわかってもらうことが絶対に必要だった。

 そうした状況で、まだ《わかっていない人たちをわからせる》時に使われたのが、「マンションは国、管理規約は憲法、総会は国会」という説得表現法だった。

 だが、最近はもうこういういい方をする人が少なくなったような気がする。

 なぜだろうか。

 マンションは国・・・などといっていた時代、マンションも、そこに住む人もみんな一様で変わりがなかった。一つの言葉で思い浮かべるイメージはみんな同じだったから、わかり方も変わらなかった。

 よかったな、あのころは・・・。

 今は、そこが違う。

 マンションは大きさや建て方に始まって築後年数も様々になった。分譲マンションの入手目的も自己居住だけでなく投機手段にもなる。区分所有者イコール居住者とは限らない。その居住者が日本人だけでないことも珍しくない・・・。

 そんな状態で、昔と同じ気分で「マンションは国、管理規約は憲法・・」などと単純ないい方はもうできなくなったような気がする。

 だが、それは、もうマンションだけのことではなくなった。

 マンションがなぞらえられた国、管理規約がなぞらえられた憲法、総会がなぞらえられた国会。

 どれもイメージは多様化して一つの言葉ではとてもいい尽くせなくなった。

 あのころは楽だったな・・・。
                   ☆
 だが、あのころマンション管理が成り立つ仕組みの大前提となっていた考え方は、今もまったく変わっていない。

 ●マンションは賃貸と分譲にわかれる
 ●その区別は区分所有者になるかどうかだけであって居住者かどうかではない
 ●だからマンション管理の大原則はいまも区分所有法である
 ●だからその大原則に沿った標準管理規約がデファクトスタンダードになる
 ●どんなマンションも一戸建て住宅と同じ個人資産である
 ●集合住宅であるマンションに欠かせない集合居住という視点は考えなくてもいい

・・・・・

 何だか気になる。今もこのいい方は当初と同じ意味のままで成り立つのか・・・。

 まだまだ、いくらでもある、まだまだ言わなければならないことが、たくさんある。まだまだ、一人でも多くの人に知らせたいことが尽きぬほどある。

 機会をあらためよう。
 

| muraitadao | コラム | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること52:年齢】「今の自分」は「昔の自分」の延長上にある。それが誰もみんな同じなら・・

「年齢」が生きてきた年数なら 言葉にも考え方にも それだけの時代の流れが必ずどこかに隠れている

 このごろ何かにつけて「年齢」という言葉の意味を改めて考えるようになった。「年齢」はこれまで生きてきた年数をストレートに示す言葉だから、何十年と続いてきた時間軸の延長上にある。自分の生まれた年に始まった長い長い時の流れの上で起こってきたきたことは、すべて《今の自分》にどこかで必ずつながっている。

 そのつながりは、自分自身が気づくかどうかに全く関わりなく、有無を言わせぬ形で《今の自分》の姿にどこかで関わっている。《今の自分》がふと語る言葉にも生きていく気持を動かす考え方にも、年齢や時代の鮮明なイメージがどこかで間違いなく隠し絵のように影を落としている。

 私自身についていえば、1931年(昭和6年)に生まれてから2017年4月25日の今までに起こったこと、そのすべてを自分がどう受けとめてきたかが、このブログのどこかにあらわれていることになる。それは、このブログを書いている私の存在に生きてきた時代がまるごと切り離せない状態で否応なくつながっているからだ。

 少し気恥しい気持にもなるが、正直な実感である。

 この点に誰一人として例外はあるまい。政治家であろうとジャーナリストであろうと無名の一市民であろうと全く変わらないはずだ。

 その人が語ったり書いたりする言葉を通して私たちが知り得るその人の考え方は、その人が生まれた時代を背景として生まれてきたものだからだ。

2017年に見えている《今のマンション》は何年も前に建てられた《昔のマンション》だから そこには竣工した時代がいたるところに映っている

 この感慨は、そっくりそのままマンションに当てはまる。

 《今の自分》が長い年月を経た《昔の自分》であり、長い年月の流れがほかならぬ《今の自分》に反映しているのと同じように、《今のマンション》は竣工以来、何十年も過ぎた《昔のマンション》であり、はるかな昔に建てられた時代のすべてが目前の建物の光景に反映しているといえるからだ。

 この点は、《昔》という言葉を具体的に何年前と考えるかによってかなり違ってくるが、仮に30年という言葉を当てはめてみると、どうなるか。

 築後30年のマンションを考えてみるなら、1987年(昭和62年)竣工ということになる。昭和も末の時代だが、今にして思えば、気づかぬうちにバブルがもう始まっていたことに思い及ぶ。

 景気効果を期待して「マイホーム」のイメージで国策機関の住宅金融公庫融資が年利4.5〜5.0%というレベルでマンションの売れ行きを支えた時代だった。

 マンション市場の広がり方に気づいた新規参入のデベロッパーが相次いだ。マンションの需要を支えたのは団塊の世代で働き盛りの40歳代。パパがいてママがいて、かわいい子供が二人いて・・というイメージの核家族が圧倒的な買い手で、どのマンションもファミリー向けLDKタイプが中心だった。

 マンションはコンクリートの長寿命建造物だから、堅牢な頼もしいその眺めも、やがていつの日か古びていく時期が来ることは、誰もが頭の隅で思い浮かべていた。だが、そんなことはすぐ頭から消えてしまって差し迫った実感はまだまだ遠い時代だった。

新しいマンションで管理にまだ実感がなかった時代の仕組みが今もそのまま・・。これって大丈夫?

 筆者が住む4棟600戸マンションは、この頃、築後13年目を迎えていた。最初の大規模修繕工事が課題となり、成り行きで旗振りを務めることになってしまった時代だった。

 ここから後のいきさつや記憶はもうとても簡単には言い尽くせないから、すべて別の機会に譲る。

 ただ、一つだけはっきり語っておきたいことがある。

 それは30年前に様々な機会を通して胸に浮かんできた実感や腹立たしさをこらえながら押し殺してきた疑問が、今もなおほとんどそのままの強さで残っている点だ。

 ほんの少しだけ、本当にいくつかだけあげてみよう。

●マンションに住む人が一戸建て住宅と同じ感覚で暮らすのはなぜだろう・・。

●マンションに住む常識が偉い人やお金持ちや難しい理屈を述べ立てる人に全くいないのは、どうしてだろう・・・。

●マンションが大きくて複雑なわかりにくい住居だというわかりきった当たり前のことをはっきりいう人が、今もめったにいないのはなぜだろう・・・。 

●『マンションは管理を買え』なんてまことしやかに真っ赤なウソをいい出したのはいったいどこの誰だろう・・・。

●働き盛りでマンションに関わろうとする人がエリートになる例が少ないのはなぜだろう・・。

●「マンション」っていったい何だろう・・・。

●「管理組合」っていったい何だろう・・・。

・・・・・・・・・・・・・・ 

 むなしくなってきた。もうやめる。

| muraitadao | コラム | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること51:教育勅語】言葉だけのつまみ食い解釈でわかった顔をするとは笑わせる

「教育勅語」を訳知り顔で議論する人はあれが生きていた時代に思い及ばぬ鈍感さに気がつかない?

 バカバカしい。苦々しい。くだらない。あほらしい。片腹痛い。「教育勅語」がどうだとかこうだとかいう議論が・・・。

 「教育勅語」が、実は中身の意味などまるでお構いなしのやたらに難しい言葉の塊の押しつけだったことに気がつかないのか。

 「教育勅語」が生きていた時代に教育された小学生から見れば、あれは何だか、まるで中身のわからないチンプンカンプンの代物だったのだ。紫色の布に包まれた巻物のような正体不明のモノがのっている黒塗りのお盆を恭しく捧げ持った校長先生が、目の前を通る時ひたすら頭を下げていなければ、いつもひどく叱られた。そんな代物をしまってある別棟のお宮のような小さな建物が「奉安殿」だった。その前を通る時も、必ず頭を下げなければならなかったな・・・。

 中学生になったら、今度は「軍人勅諭」。それに「戦陣訓」。どれもめちゃくちゃに棒暗記させられたから、意味などそっちのけで、ただもうお経と同じ代物だった。

 奇妙な成り行きでよみがえってきた思い出したくもない記憶は、嫌が応もなく名ばかりの授業と並んでいた「軍事教練」や「工場動員」を連想させる。
                   ☆
 「教育勅語」がどんな意味の代物だったのか正体がわかったのは、すべて戦争が終わってからだった。すべて、後で知ったことだった。
                   ☆
 こんな代物でも有無を言わせぬ意図で重くのしかかったのは、そういう時代だったからだ。言葉はそれが使われた時代の空気の中でこそ本当の意味を持つという肝心なことにまるで気がつかないまま、《憲法とか教育基本法に照らし合わせて》どうだとかこうだとかいう議論がさも重大な意味ありげに伝えられる。

 ちゃんちゃらおかしい。まともなレベルの大人の話ではない。

時代の視点を忘れると目的と手段がすり替わって言葉だけの空疎な手続論になってしまう

 そもそも「教育勅語」が過去のものになったのは、遠い昔のことだ。存在すら忘れられていたはずなのに、このごろになって急に議論されること自体が奇妙ではないか。

 大阪のヘンな学校経営者と、それに共鳴したどこやらの気楽な奥さんが絶好の話題作りの種になっただけの話ではないか。国会で議論したり新聞が社説で取り上げたりするような重みのあるレベルの話ではないだろう。

 要するに、議論のための議論ではないか。今ごろホコリを叩いて「教育勅語」を引っ張り出すなら、断片的に言葉のつまみ食い論議をするのではなくて《あの代物が、誰によって、どんな使い方をされたのか》という時代背景を考えた広がりのある視点が必要ではないか。

 仮にも「教育」と名乗った文書だ。「教育」が時代の視点抜きで語られるべきものではないことを、なぜ誰も考えないのか。

 時代を抜きにして考えるから、目的と手段が入れ替わって干からびた意味のない手続き論になり下がってしまう。CMまがいの空っぽな言葉だけになってしまう。

 目的と手段がすり替わっても、手続きだけは空っぽな形のまま言葉の上では成り立つ。だから、小難しい言葉で、さも、もっともらしく語ることはできる。

 それが議論倒れになっていることにも気づかぬまま・・・。


目前の建物が何十年も昔に建てられた事実を忘れるとマンション論議はむなしくなる怖さ!

 時代抜きで考えると自分の語る言葉が空っぽになってしまう怖さは、マンションの場合、とてもリアルな実感がある。

 いま見ているマンションは、実は、もう何十年も前に建てられたものなのだ。いま見えているマンションの光景は、もしかすると自分が生きてきたよりも長い年数の歴史を物語っているかもしれないのだ。

 だが、その長い年月は世界遺産のような《これまで経過した年数の長さ》とは違う。そこに人が住んできた時間の流れが今もなお確実に進んでいる最中の光景なのだ。今日の光景は昨日の、昨年の、そして建てられてから現在まで何十年にも及ぶ光景の続きなのだ。

 マンションが人の住まいである限り、その流れの光景の中にはいつも老若男女、様々の大勢の人がいたし、今もいる。これからも、いるだろう。

 マンションを考える人は、そういう意味で建てられた時代を背景としていつも考えなければならない。いま竣工後30年ぐらいのマンションならバブルの時代背景を、40年ぐらいたったマンションなら日本列島改造論にまだ実感があった時代を思い出しながら、考えなければならない。

 マンションは決して《いつの時代もみんな同じ》ではないからだ。
                   ☆
 「教育勅語」論議のむなしさは、マンション論議の隠れた盲点を気づかさせる。

| muraitadao | コラム | 07:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること50:メール】使い慣れた人とまるで使えない人が隣り合って住むマンションで・・・

メールでわかりあう世界。挨拶抜きでいきなり用件が分かりさえすればいい、と言えば確かにそうだが・・

 安倍首相夫人のメールが、何かにつけてニュースに流れる。

 なじんで久しいメールだが、考えてみると身辺には今でも使っていない人が珍しくない。思い返すと、メールのやりとりを始めて間もないころは、メール特有の文章スタイルや言葉の使い方が毎回いつも気になっていた。

 例えば、メールの冒頭に必ず出てくる《いつもお世話になります》というあの書き方。会ったこともないし顔も知らないような人からのメールの文面なのに、始めて読む文面が《お世話になります》で始まる。ご丁寧にそういわれても、「お世話になる・・」といわれるほどの実感はまるでないのだが。

 その一方、普通の手紙文ならまずくだけたやり取りで書き出し始める言い方は、メールでは全く関係ないらしい。

 メールの書き方はよくいえば率直ということだろうが、挨拶抜きでいきなり用件に入るむき出しの書き方が相手にどんな感じで受け取られるだろうかと気になる場合は、逆にその率直さが気がかりの種になる。そんなことをいちいち気にしても仕方がないといわれれば、確かに、もう、そうなのだが・・・。

 そんなわけで、何かを伝えたい相手にメールの表現感覚で書いていいかどうかは、今でもけっこう気になっている。何かを伝えようとする時に、《拝啓》とか《時下ますます・・・》とか紋切り型で書かなくても、《桜がほころぶ時期になりました》といった程度のことはこちらも書きたいし、もらった時もその方がいい。

 これは、全く理屈では説明できない気持なのだが。 

「冗長度」のある文章の方がわかりやすいという考え方の真実。“無駄”の重み

 ここまで書いてきて、突然思い出したことがある。

 もう40年以上も前になる。昨年(2016年)亡くなられた唐津 一さんに教えていただいた言葉だ。情報工学の大学者だった唐津 一さんはこの頃まだ松下通工だったか・・。

 注)唐津 一氏は情報工学者。旧電電公社、松下通信工業(現・パナソニックモバイルコミュニケーションズ)から東海大学へ。電子計算機時代初期の実情からニッポンそのものまで独特の語り口で飽かず論じ続けた。昨年の終戦記念日に97歳で世を去った。

 持ち前の気さくな雑談の中で《冗長度》という言葉があることを雑談の中で教えられた。英語では《リダンダンシー》というのだとも。

 精密性が欠かせない運転席などの設計で、無駄な操作を一切しないことばかりを重視する考え方で計器の位置などを設計すると、かえって操作者がミスを起こしやすくなる。理屈通りにならない厄介なこの現象を防ぐために、あえて無用な計器をわざわざ紛れ込ませた設計をした方がいい場合がある。

 判断源となる情報データを読み取る人間の理解能力には合理的な必要度だけでは割り切ってしまえない側面があることを考えて、あえて必要性のないものを意図的に介在させて人間の緊張度を緩めるという考え方だ。この考え方を《冗長度》というのだ、と。

 40年も前に聞いたこの考え方や言葉が、その後どうなっているのかは全く知らないのだが、人間の理解能力にはこういう考え方が必要となる側面があると気づかされた衝撃は、とても大きかった。

 《冗長度》という言葉を知って以来、一概にムダといわれることを気軽に見過ごせなくない発想が身体に染みついてしまった気がする。

 昔、私の文章は、建設省からきた天下りの役人たちから、いつも《回りくどい》とか《余計なことを言いすぎる》などと文句の言われ通しだった。

 逆に、普通の人たちには喜ばれた。わかりやすいとか、納得できて安心する、とも。この当時の経験は《和文邦訳》を表現上、最大に重視する習性となって、その後の執筆活動の支えになった。その点は、今も変わらない。 

《冗長度》という言葉の中にメール全盛時代のマンションで欠けているものが見つかるかもしれない

 マンションは大勢の人が住んでいるのに、コミュニケーションが足りないなどといった嘆きを聞くようになってから久しい。誰もがそういうのに、どうしたらいいのかわからない。

 そんなもどかしさが、もう長らく続いている。

 このごろ何かにつけて気になるのだが、管理組合の中で以前にはなかった形で意見が対立することがある。そういう場合、意見の出し方、もっと詳しく言えば、自分の考え方を表現する方法や言葉の使い方が原因ではないかと思えることが多い。自分の考え方を相手にわかってもらえるような言い方を考えないまま、自分の考え方ばかりが露骨に並ぶ言い方がきっかけになったりする。

 この現象にメール的表現感覚と非メール的表現感覚の違いが関係してはいないだろうか。相手の受け取り方をあまり考えないまま、いきなりむき出しの書き方で短い言葉を並べる感覚で意見を述べ、物事を決めている傾向はあるまいか。

 メールが無縁な高齢者世代とメール万能の世代との間に『伝えてわからせる』ための表現感覚にギャップが生まれているのではないか。
                   ☆
 表現感覚は属人的な問題だ。だから、どんな人たちの住むマンションなのかが実情にことごとに関係する。それだけに管理の現場を知らない人には通じない問題だ。

 いろんな人の意見や経験を聞きたい。

| muraitadao | コラム | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること49:文書破棄】捨ててしまいたいのは記録か過去か、それともその両方か

 このブログは、ラジオの国会中継を聞きながら書いている。あるはずの文書がないとか、誰も考えなかったFAXの紙が出てくるとか、文書の持つ意味の重さが今さらのように大きく浮かび上がる。

文書を捨ててしまえば何とでもなる?急場をしのげれば捨てたはずの文書が見つかることも・・・

 今さらでもないが、役所の文書というのは、いったいどういう扱い方になっているのだろうか。

 たぶん文書保存規則のようなルールがあって、文書の性質によって保存年限が決まっている・・・といったことにはなるのだろうが、最近のニュースを見ていると、やはりわからないことが多い。

 一つは、「文書」のイメージが昔と一変してきたことが関係しているのかもしれない。高齢化時代の今でも「文書」という言葉を紙に書いたイメージで考える人が多い一方で、ICレコーダーやパソコンのメモリーで記録することも珍しくない。目的も用途も公式のものばかりではなく、私的なメモも少なくない。

 ただし、手段や保存の形が違っても書き留めた内容を後で読み返して参照する目的は共通しているし、それが人間の忘れっぽさへの対応手段である点も変わらない。

 そういう事情があるから、何かあれば、すぐ《文書があるか、ないか》が大きな論点になる。文書の意味はとりも直さずそのまま人間の記憶と同意義化するわけだ。

 大阪の何とかいう素性不明な学校建設用の国有地が格安で処分されたケースや、自衛隊の派遣先の状況報告文書が破棄されていたはずだったのに後から見つかったというケースなどを考えると、そう思わざるを得ない。

 もっとも3月20日の東京都議会の百条委員会の中継を見ていたら、尋問する方が過去の文書でしきりに何かと問いかけているのに、元都知事の方は体調がどうだとか何だとか述べ立てて空とぼけっぱなしだったというケースもある。

 文書の有無が意味するものも、結局のところ、その文書に関わる当事者の人間性によってどうにでも変わってしまうこともあるらしい。

40年以上保管してきた自分のマンションの記録をどうしようかと思い悩む毎日・・・

 実は、いま思い悩んでいることがある。

 たまりにたまったマンション管理組合の関連文書をどうしたらいいか・・・。

 このブログにも何度か書いてきたが、竣工以来ずっと住み続けてきたマンションが来月で43年目を迎える。いま86歳の人間にとって、人生の半分をこのマンションで過ごしてきたことになる。

 それだけの年数を過ごしてきた人間が何年経つとマンションのどこがどうなるかを確かめてきた。11階建てが4棟、およそ600戸のマンションで、43年の歳月が住いとしての建物をどう変貌させたか、居住者が1000人をはるかに超える管理組合の実情をどう変えて来たかも、目の当たりに見つめ続けてきた実感がある。

 大規模修繕工事など管理組合の課題の乗り切り方も一通り確かめてきた。

 そんな歳月の記録がいま結構な量になっている。広報誌や総会資料だけでもなけなしのスペースをふさぐボリュームは小さくない。

 40年以上たって、居住者の顔ぶれも一変した。管理組合の役員などは親子ぐらいの世代差を痛感せざるをえない。管理会社も企業合併で縁もゆかりもなかった大企業系列になったから、実務的な対応で理詰めな感じが強くなってきた。

 こうなると、このマンションの過去のことは誰にもわからなくなる日が確実に近づいていく一方だ。マンションのここに、どういう考え方で、どういう工事をしたのかとか、管理組合のこのやり方はいつから始まったのかなど、日本神話さながら霞の向こうにぼやけて確かめようもないことがたくさん生まれ始めている。

 しかし、こんな思いのする文書を管理組合に寄付しようとは思わない。管理組合の実情を考えれば、間違いなく散逸してしまうことがはっきりしているからだ。

 いっそスキャンしてメモリーに入れたら・・とも思うが、年齢を考えると、時間とエネルギーがとても・・・と思う。

 いったい、どうしたものだろうか。考えあぐねている。

マンションが建ち続ける年月の長さに人間の記憶が追いつけないことがはっきりしているのに・・・

 こういう問題をどう考えたらいいか。今のマンション管理システムには全く答えがない。法律や仕組みにはそもそもこんな視点の問題意識がないから、まるであてにならない。こういう問題を考えている人など、いったいいるのかどうか。

 役人や学者はまるであてにならないし、さりとてマンション管理士や弁護士が頼りになるはずもない。

 そもそも、当の管理組合自身にこういう問題意識がない。管理会社には、もっとないだろう。

 もう10年ぐらい前に『マンションみらいネット』というのがあった。国交省やマンション管理センターが打ち出したマンション管理組合の履歴保管システムだ。

 この仕組みの考え方は間違っていいないと、今も思う。

 しかし、率直にいえば《机上の空論》に近い構想だった。それが証拠には、この仕組みは肝心の管理組合ではほとんど知る人がいない。

 それぞれのマンションに固有の建物修繕や管理組合運営に関する文書記録をネットの活用で実現できたら素晴らしい。

 でも素晴らしいことが実現するわけではない。素晴らしくても実現しない方がはるかに多い。当然ながら、そうなるだけの理由があるのだから。

 素晴らしい『マンションみらいネット』が実現しなかったのは、この仕組みの対象となる管理組合の実情に理由があったからだ。今も、そこは変わらないし、むしろ内攻して複雑化している。

 マンションは長寿命の建物なのに、そこに住む人間の記憶の方が追いつかない。建物だけがボロボロになって建ち続けても、人間の記憶も記録も確かめようのない状態でぼやけていくばかり。

 そのことだけは空恐ろしいほどはっきりしている。・・・・

 もう、これ以上,書きたくない。

 むなしいから。

| muraitadao | コラム | 18:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
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