村井忠夫のマンション管理ブログ

村井忠夫のマンション管理ブログ
【語り尽くされていないこと、見逃されていること63:実感的住宅問題】戸数不足から空き家続出までの経過を見てきた62年目の実感

海の物とも山の物ともわからぬまま住宅金融公庫で住宅と関わり続ける日々が始まった・・・

 1955年(昭和30年)8月1日が、住宅に関わって33年に渡る長い歳月の始まりだった。この年は就職難で、卒業したときも就職口を探していた。

 そんな中で、偶然聞き込んだ話を頼りに住宅金融公庫に入った。公庫なんて、名前も聞いたことがなかったし、いったい何をやるところなのかもまるで判らぬままだったが、そんなことをいちいち気にしてはいられなかった。

 2か月ほど過ぎて「今月からもう公務員ではなくなる。ついては住宅公団というところができたので、そちらの方がよければ移ってもいいし、このまま公庫に残ってもいいが…」という奇妙な通知を受けた。考えるのが面倒くさくて、そのまま残った。

 その時は、公庫とか公団とか聞きなれない名前の組織がどう違うのかなどを知りたいとも思わなかったし、聞いてもわかる人はいなかったろう。

 でも、公庫とか公団の区別は、その後、住宅に関わる年数が長くなるにつれて折あるごとに気になるようになってきた。

 住宅金融公庫での33年間、いつも頭の上には建設省から来た人たちがいた。天下りなどという言葉もまだなかったが、住宅のことがわからない割には見当違いの文句が多くて、我慢の日々だったことを思い出す。

 だが、住宅のことはわからないし、まして金融なんて・・・という人たちでも唱え続けていたスローガンがあった。「住宅建設五箇年計画の公営・公団・公庫の三本柱」だった。《住宅は道路と違って票にならないからねぇ》という政治家にもこのスローガンはそこそこに有効だったらしいが、やがて、これに住宅建設の景気刺激効果という強力なメニューが加わった。

 アメリカ仕込みのご託宣に従って、1970年代後半(昭和50年代初頭)から融資政策による住宅建設で内需拡大が景気テコ入れ効果を生むというキャンペーンが有無を言わせぬ形で現場に持ち込まれた。マイホーム、マイホームというCMそこのけのスローガンで。

 住宅政策という名だけが残って、実は、もう、まぎれもなく中身が経済政策にすり替わったのだと思った。

時が流れると住まいと人がどう変わるかをわが身の住生活史に重ねて確かめてきた歳月

 終戦当時の《住宅不足戸数430万戸》のトーンが弱まるのと入れ替わりに「日本人の住宅はウサギ小屋並み」と外国に言われて「量から質へ」といきり立ち、住宅ローンが本格化した。「一億総中流」という言葉と「マイホーム」というスローガンは相性がよかったのだ。住宅ローンの広がりが支えになって関連業界も関連ジャーナリズムも熱気に覆われた。それから、バブルがやってきた。

 だが、その後、かつての熱気は冷めて様相は一変した。湧きに沸いた業界もジャーナリズムも「今は昔」。人は老い、減った。子供が少なくなった住まいには静けさだけがた漂う。・・・・・

 人間にとっても住まいとしての建物にとっても、流れる年数は変わらない。ひたすら住宅に関わり続けてきた者には、何年たったら、何が、どういうふうに変わるかを見つめ続ける歳月でもあった。

 この歳月は、住宅金融公庫での政策実現効果の見極め→住宅ローンを通じた評論活動→自分自身のマンション居住スタート→管理組合組織への関わり→マンション管理センターへの協力→マンション管理サポートという形で、「住まい」が人間存在の根幹に関わっている実感をわが身の住生活史に重ねて確かめる結果になった。

 歳月は流れた長さだけ、すべてのものを確実に変貌させる。何年たつと、何が、どのように変わるかを見つめ続け確かめながら人は誰もが老いていくのだが、私の場合、その実感は住宅に集中していることを、いま、つくづく実感する。

いま見えている光景は過去の流れの中に始まりがある。そこは住宅も同じ。マンションも同じ。

 2017年のいま見えている光景は、脈絡もなく突然生まれたものではない。住宅の現状も、その点は同じだ。

 いま課題となった空き家も、実情は昔から確かめられていた。住宅戸数が世帯数より多いことがわかったのは1968年(昭和43年)、マンションブームを受けてマンションが公庫融資の対象になったのは1970年(昭和45年)、物件情報誌を無視できないほど住宅市場が存在感を増した一方で、「過疎」という言葉を新聞でみて気になり始めたのが1967年(昭和42年)ごろ・・・。

 そんなころ自分自身がマンションに住み始めた。1974年(昭和49年)4月だった。今も、そのマンションに住んでいる。

 居住歴43年ともなれば、管理組合とは無縁でいられない。いやおうなしに、マンションで起こる様々なことに降りかかられて過ごした年月でもあった。

 何年たてば、マンションでは建物がどう変わるか、住んでいる人間が齢を重ねてどう変わるか、世間一般の感覚や常識がマンションの中ではどのくらい通用するか、時がたつとマンションでは竣工時に考えたこともなかった事態がどのくらい起こるか、実情に照らし合わせた建前と実情がどうなっているか、法律などの仕組みをどれくらい当てにできるか・・・。

 際限もないほどのことを山ほど見てきたから、《マンションは管理を買え》などという言い方が、実は、途方もなく真っ赤な大嘘であることもよくわかった。

 ここからあとのことは、次に書く。

| muraitadao | コラム | 09:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること62:年数感覚】字の向う側のイメージで本当の意味が読み取れる戦後72年

何もかもがすっかりなくなってしまった8月。でも明日からの日々への思いを取り戻したのも8月

 今年も、また8月。
                 ☆
 72年前。14歳の少年だった。

 8月14日までひたすら聞いてきたこと、一途に信じてきたこと、未熟ながら懸命に考えてきたことが、すべて8月15日にひっくり返された。「あれは、もう、みんな違うんだよ」と否定された。何もかも「なかったことになる」・・・。そんなことがあるものか、と思った。

 だが、「戦争に負けたんだ」と思いながら、一方で「あぁ、これで、やっと戦争が終わったんだ・・・」とも思った。ほっとした、というのが実感だった。

 夜になるとその実感がさらにはっきりした。電灯をつけても、もう灯りが漏れるのを心配しなくていい。夜になっても明るいってこんなにいいものだったかと思った。

 ラジオの天気予報を聞いて、あ、ずいぶん聞かなかったけれど、そういえばこんな放送があったんだな・・と思った。明日がどうなるかわからない毎日、誰もが天気予報など、とっくの昔に忘れていたが、ラジオを聞いて思い出した。戦争がないから、これからの天気を聞いて明日のことを考える意味があったんだな・・・と気がついた。

 時代や年数は、その時代に生きてきた人間の記憶と切り離せない。

 今、あらためて、しみじみ、そう思う。

終戦後の年月は「その日その日の生活光景」の積み重なりのシーンだった

 正直に言って、言葉としては「敗戦」よりも「終戦」の方に実感がある。でも、その「終戦」後の日々は長かった。

 何もかもがない中で「明日がある」という気持だけにすがる毎日だった。朝が来て、夜になって、「今日も、何とか一日終わったな・・」と誰もが思った。そんな日が続いて一か月過ぎ、気がつけば季節が変わり、そして年が過ぎていった。

 少なくとも1946〜1947年(昭和21〜22年)ごろを思い出すと、そんな気分がよみがえる。
                   ☆
 終戦後の日々を記録文献だけで語ったり論じたりするケースに接することがある。

 一概に文献だけで何かを言うのを非難できないだろう。人によっては文献を頼りにするしか方法がないこともあるから、そういう語り方もやむを得まい。

 しかし、語ろうとする時代によっては、自分が語ることと照らし合わせながら、もう少し謙虚であってほしいと思う場合がある。想像で空疎なイメージをふくらませてほしくないのだ。

 昨年のブログにも書いたのだが、講談社から出た井上寿一著「終戦後史」のことは、この点で気にかかる。この本は一昨年に出たのだが、《押し寄せるアメリカの大衆文化》という見出しの東京裁判にふれた部分にこんな記述がある。

「・・・その時判決が下る。国民は街中で、駅のプラットフォームで、家の中で、ラジオの実況中継に耳を傾けた。・・・」

 ここを読んで、反射的に、あ、これは想像で書いたなんだな・・と思った。

 戦後間もないこの頃、ラジオに実況中継などまだなかったし、ラジオ自体が真空管式の大きくて重い箱状だった。携帯ラジオなど想像したこともなかった時代だったから、《街中で》とか《駅のプラットフォームで》とか書かれると、《そんなこと、いったいどこの話なんだ》と言いたくなる。

 どう考えても文献資料で読んだ時代記録にあとから著者が独自の想像イメージをかぶせて書いたとしか思えない。

 (この本にはほかにもこういう感じの個所がいくつかあるのだが、ここでは書かない。)

 ただ、著者は有数の実績がある高名で有数のな政治学者・歴史学者だ。そんな人の書いたこの本は説得力のある立派な本であって、この時代を生きてきた人間も知らなかったことや気づかなかったことをたくさん教えてくれた。そのことは、きちんと明記しておきたい。

 その上であえて言うのだが、この本の書名は「終戦後史」ではなく『政治外交面からの終戦後史』とすべきだった。この時代を鮮明に記憶している人間が想像したこともないようなイメージを書くべきではなかった。読後感は複雑である。

住宅の絶対的戸数不足で始まった戦後72年のいま、空き家が課題となる意味を考える手がかり

 年数を考えるときには、文字の向う側に何を読み取るかという点で、特有の感覚が欠かせないと痛感する。経過した年の積み重ねから浮かび上がる連続した時の流れから何かを思い描いた時に、はじめて年数の語る意味が浮かび上がるのではあるまいか。

 そう考えないと、《現在が過去から続く時間の流れの上にある》というわかりきった肝心なことが読めなくなってしまう。

 時代や年代のイメージの思い描き方が人によって難しくなるのは当然だが、語ろうとする時代や年代によってこの点が重い意味を持つのは間違いない。
                   ☆
 終戦の時、住宅不足戸数は430万戸だった。

 72年が過ぎた今、人口減少や少子高齢化に直面して、いま空き家が深刻な課題となる。

 住宅という側面から見た戦後年数を読み取るヒントはどこかにあるのだろうか。
 

| muraitadao | コラム | 17:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること61:特区?民泊?】二つの記事の“民泊”が語るマンションの実情認識レベル

「マンション民泊可否を規約に 国交省、管理組合に要請へ」という日経の記事が伝えていること

 まず、この7月21日の日本経済新聞朝刊に出た1面の記事を確かめてみよう。見出しと記事をできる限りそのまま引用する。

見出し
マンション民泊 可否を規約に/国交省、管理組合に要請へ/新法施行控えトラブル防止

記事の前文
住宅に旅行者を有料で泊める民泊を全国で認める法律の成立を受け、国土交通省はマンション管理組合に民泊の受け入れ可否を管理規約に明記するよう、8月にも要請する。同省は規約のひな型を改正して民泊の対応に関する文案を盛り込み、業界団体などを通じて周知する。法施行前に各組合で方針を決めてもらい、トラブル防止につなげることが狙いだ。

記事の主要部分
 国交省が改正するのは「マンション標準管理規約」と呼ばれる管理規約のひな型。同省によると全国のマンションの管理組合の8割以上が憑依順管理規約を参考にして各自が規約を定めている。…改正案はこの条項の後に「専有部分を住宅宿泊事業に使用できる」「専有部分を住宅宿泊事業に使用してはならない」などの文言を盛り込むよう求める。

 家主が民泊をおこおなう際は「事前に管理組合へ届け出るよう規約に定めることが有効」と記載。・・・同省は・・8月にも業界団体や自治体に対して、管理組合へ周知を求める通達を出す。・・民泊は訪日外国人の宿泊の受け皿となる一方、ごみ出しや騒音などを巡り近隣住民とのトラブルが頻発。国交省は各管理組合で民泊可否の方針決定に時間がかかることを考慮し、法成立直後に標準管理規約改正を決めた。・・・

『「特区民泊」現状は・・・』など専門紙の記事がたびたび伝えていること

 次に、専門紙のマンション管理新聞が2月15日号で伝えた記事を同様にできる限り見出しと記事をそのまま引用して紹介する。

見出し
東京医・大田区 分譲マンションは7件/「特区民泊」、現状は/大阪市は1止まり/ごみ出し・騒音「苦情相談ない」

記事の前文
 昨年2月に東京都大田区が「特区民泊」を開始して約1年。その後も大阪府・市が特区民泊を始め、今年1月には北九州市も申請の受け付けを開始した。各地で特区民泊が広がりを見せる中、この4特区に実情を聞いてみた。

記事の主要部分
 ・・・(本紙の調べでは)大田区は・・分譲マンションは7件38室投資型マンションが多いようだ。…ごみ出し・・によるトラブル・・の苦情や相談は1件もなく、・・今後も管理規約の提出などを義務化する予定はない・・・。大阪市も…分譲マンションは1件1室のみ・・、北九州市は…解禁から日が浅いこともあり、申請はまだないようだ。・・・

 この後、同紙が伝えた民泊関連記事は、見出しだけをあげておく。

●3月24日号  東京都大田区「特区民泊」マンションの現況/ファミリータイプも1件認定/大きなトラブルはなし

●5月25日号  国交省 管理適正化でアンケート 管理組合・区分所有者対象に/民泊 9割が「NO」

●6月25日号  国交省 標準管理規約改正案公表 民泊可否 条文例を提示

●7月15日号  管理協 民泊対応で意見提出 マンション管理業と民泊事業 宿泊者が違い分からず/管理事務室に『トラブル持ち込みも』

加計学園も「特区」、マンション民泊も「特区」。でも「特区」っていったい何だ?

 このブログを書いている横のラジオが国会の閉会中審査の様子を伝えている。問題の一つは加計学園の特区のこと。

 この話はいくらニュースを用心して聞いてもわからない。そもそも「特区」というのが、いったいどういう趣旨なのかがわからない。

 マンションにも「特区」とやらがあって「民泊」というのが前から問題になっているのだが、どの新聞もテレビも全く取り上げない・・・と思っていたら、日経が書いてくれた。

 でも、書いた記者が記事の内容の問題をどこまで理解していたのかどうかがわからない。

 そもそもいまのマンションには「民泊」なんかよりももっと早く考えてほしい問題が山ほどある。国交省のデータではいま全国で600万戸をはるかに超えるマンションがあるのに、その中で、あるかないかといったごく僅かなマンションの「民泊」がなぜ現実の課題になっているのだろう。わざわざ法律を作ったり標準管理規約をいつになく早々と改正するのは、いったいなぜなのか。

 そこがわからない。

 わからない、わからない、わからない・・・。

| muraitadao | コラム | 10:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること60:過去不問】「記憶がない」と答える空々しさはマンションでは命取りになるかも・・

「たった1年前のことを覚えていないエリート役人がこんなに多い」という空々しさは・・・

 7月8日の朝日新聞朝刊1面の記事が目に留まった。見出しは、こうなっている。

『公文書廃棄指針、見直しへ/内閣府管理委 保存「1年未満」縮小』。

 地味な見出しだし、1面のほぼ中ほどとはいえたった3段しかない。もしかすると、このニュースは朝日新聞だけだったかもしれないような気がする。

 しかし、一見つまらない感じのこの記事の裏側に浮かんでくる光景が気になる。

 もうこの何か月も問題になり続けてきたことが、結局のところ「言ったか言わなかったか」のやりとりであり、それも肝心なことになると必ず「記憶がない」という定番中の定番の応答になり、最後に「公文書が見つからない」という言い分にすり替わってしまう様子ばかりをうんざりするほど繰り返し見せられてきたからだ。

 そんなはずはないだろう。かつて暗記力を磨きに磨きながら難しい競争をくぐり抜けて出世してきた頭脳明晰で有能な人たちがそんなに忘れっぽいはずはないじゃないか・・・。本当にそれほど忘れっぽかったら、今のようなエリートになれるはずがないじゃないか・・・。

 それもこれも、記憶喪失は「言った」事実を裏付けとなる公文書がないからの言い分だ。公文書があれば、たちまちにしてよみがえる記憶力。過去のことは、すべて公文書次第。《公文書がない→記憶がない》という公式は《公文書を残すかどうか》という判断の結果であり、その判断は《どんな公文書を残すか》、逆に言えば《どんな文書は残さない方がいいか》という判断も、手がかりになるルール次第となる。

 結局、すべて仕組みの問題だから《判断》という属人的な個人能力の問題にならないように制度のレベルでガードできるように、何とか対応しようという役人世界特有の回りくどさが浮かんでくることになる。

「記憶にない」のは「文書がない」から・・という過去を不問にする感覚はマンションでも他人事ではない?

 見え透いているなどとは言うまい。

 ただし、こういうやり取りが臆面もなく展開されるということは、今の世の中では「過去のことは文書があるかないかで、すべて決まってしまう」という不文律めいた感覚が、いつの間にか世の中全体に広がりつつあることを否応なしに考えさせられる。

 これは、もう間違いなくれっきとした官僚主義感覚の産物だが、《こういう場合には、こういうふうにやり取りすればいいんだ》という感覚や風潮の広がりは、マンションでも決して無視できないだろう。

 その結果、言い方次第、文書の有無次第で過去のことは不問になるというおかしな風潮が生まれることになる。

 世の中で起こることは、必ずマンションの中でも起こる。世の中で通じる言い方や言葉遣いは、必ずマンションの中でも再現する。

 多くのマンションで、その様子は管理組合の総会など一定のルールで意見の発言が許された機会にまざまざと実感されることが多いはずだ。

 こういう機会にだけ顔を出して、マンションの維持管理についての理解や関心の有無とは全く離れて、マスコミ情報の受け売りで聞き馴染んできた論理や言葉遣いの主張を並べ立てる。それに応答する方もまた、そういう感覚で発言する。

 やり取りの大部分は「いま目前に見えている問題」ばかりであることが普通だ。マンションでは、きょう見えている光景の背後に過去までさかのぼらないと問題の本質がわからないことばかりなのだが、そこがまるでダメなのだ。管理組合の役員は毎年変わるのが普通だし、発言する方も過去のことなどわからぬままの展開になる。

 かといって、過去のことを確かめる資料もこれというほどのものがない。管理規約や法律の条件に対応した議事録などが中心だから、《いったい、いつ、そんなことを、誰が決めたんだ》という肝心のことになると、もう誰にもわからない。

 管理組合の世界には、こんな形で積み重ねられた組織運営慣習が驚くほど多い。その大部分はいつから始まったのか確かめようがないのだ。

 まさに「記憶がない」状況そのものである。その状況は「文書がない」から確かめることもできない。まして、そうしたことを想定したルールもない。・・

 かくて、連日のニュースがもたらすもどかしさは、マンションでも他人事ならざる不安な現実感を呼び起こすことになる。

ストックの増加でマンションごとの過去の再点検が管理の命綱になるはずなのだが・・・

 ここまで考えれば、問題はもうはっきりする。過去の経過を記録する感覚も手段もないのだから、竣工以来の長い歳月の間に、それぞれのマンションごとにどんな課題が生まれ、どう取り組んできたかという物件固有の歴史が誰にもわからない状態が広がっている。

 マンションは長寿命の建造物だが、同じ経過年数が住む人間の方には建物の経年変化とはまるで異なる変化を生む。高齢化や空室住戸の発生は、その典型だ。こうした事態を生んだマンション固有の歴史を探らなければ対応の仕方も考えようがない。

 国交省のマンションストック戸数は633.5万戸。歴史の再点検による管理の充実が命綱となるマンションが増えていることは誰に目にも明らかだろう。

 霞が関の役人とは違って、マンションの方は、もう「記憶がない」などと言っていられない状態なのだ。

| muraitadao | コラム | 14:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること59:言行信頼度】「朝のあいさつ励行」を霞が関の役所が期間限定で呼びかける意味は・・

厚労省の「働き方改革中間報告書」がこんなことを自省の役人に呼びかけているなんて、まさか・・・

 6月30日の日経朝刊の2面で見た「砂上の安心網/当事者の証言5/持て余された3万人」という記事の一部にこんなことが出てきて、ちょっと驚いた。

 《・・・厚労省は5月、省内の働き方を見直すべく中間報告書を公開した。対策にコミュニケーション強化月間(仮称)」の創設を掲げた。その一つが「朝のあいさつの励行。目を見て明るく元気にさわやかに」。・・・》

 最初、ちょっとこの記事の意味がわからなかった。

 霞が関の中央官庁である厚生労働省の空気を伝えている記事の中に「朝のあいさつの励行」などというきわめてありふれた普通の生活感覚の言葉が出てくるとは、ちょっと思いがけなかったからだ。

 役所とか役人の世界の言語感覚は、普通こうではない。《できるだけ早く》と言えば済むことを『可及的速やかに』と漢字交じりの難しい言葉で言わないと落ち着かない世界だからだ。そんな世界で、まさか、こんな普通の言葉が公文書に出てくるはずがないという先入観があったから驚いたのかもしれない。

 でも、日経の記事にはこの言葉が出てくる中間報告書を公開したと書かれているから本当はどうなのか確かめてみるのが一番いい。

 そう思ってネットで探してみると、確かに見つかった。

 平成29年5月という日付けで「厚生労働省業務改革・働き方改革加速化チーム 中間とりまとめ」と題したレポートに、日経が伝えているようなことが出ている。

 市井の一市民に過ぎないこちらにはこのレポートの具体的な内容は全く分からないのだが、この文書全体に“お上”がいつも民間に向かって言っていることが、実は、当の役所自身で少しも実行できていなかった感じがありありと浮かびあがってくる。・・・・・

 だが、そんな気分はしたものの正直に公表した率直さは評価したい。何であれ、自己正当化に固まっていて《自分のことを考え直さない》《謝らない》昔からの役人の習性を考えれば、こんな率直さを誰が予想できただろうか。

 この感想は、先日来ありのままを語ってきた文科省元事務次官のことを聞いたときの「いまどき、こんなに気骨のある役人がいたのか」と驚いた感じに結びついた。

にしても、これは、それだけ否定できない事実があるからではないかと考えると・・・

 それにしても、こんなことが正直さ丸出しの感じで「中間報告」に出てくるのは、そういわざるを得ない実態があるからではないのかと思う。

 そうではないか。

 厚労省には「朝のあいさつを励行していない人」や「目を見て明るく元気にさわやかになっていない人」がたくさんいるという実情があるからからこそ、こういう提言が行われたのだから。

 だが、その提言も「コミュニケーション強化月間(仮称)」とかいう期間を限った呼びかけなら、その月間が終わってしまった後はいったいどうなるのだろうか。こういう呼びかけは無期限に長続きしなければ意味があるまい。何月何日から何月何日までの期間だけの朝のあいさつや明るく元気なさわやかさも期間が終わったら“おしまい”なら、結局のところ《一時の気休め》ではないか。期間限定の呼びかけなら、期間が終わった後は否応なしに後戻りしてしまうだろうに・・・。

 テレビCMもどきのスローガンで何度も何度も聞かされてきた《一億総活躍》とか何とかいう言い方にも、そんな感じが漂ってはいないか。

 こういうことは厚労省だけなのか。文科省や経産省、国交省はどうなのか。

 ・・・・・と書いてきたころで、東京都議選の結果を聞いた。都民税の税額決定通知書を改めてみたばかりの時期で、今度はまことに複雑な気分の投票だった。

 今日のブログに書く心境は、この選挙結果を聞く複雑さとどこかで通じている。

聞かされ続けている言葉の信用が問われる時代、管理組合や管理会社は大丈夫か

 昔から《世の中で起こることはマンションでも必ず起こる》と言い続けてきた。良いことも悪いことも、世の中で起こることはマンションでも必ず同じように起こる。

 マンションは、まさに文字通り社会の縮図なのだ。

 マンションは人間の住まいである。考え方も生き方も人の数だけ違う大勢の人々が同じ建物での生活条件を共有することで成り立つ集合住宅では、そこに住む人間次第ですべてが決まる。

 マンションの建前や仕組みも、この点の例外ではない。

 建前や仕組みの本当の意味も、マンションに住む人にとっては、自分に向ってそれを求めている人自身が、いま《自分の言っていること》がいつであれ《自分でもできる》という実行可能性で確かめているかどうかで本当のところが決まる。

 この点は、総会に出るかどうか役員を引き受けるかどうかには全く関係がない。すべての人が黙ったまま同じような感覚で受け止めているはずなのだから。

 マンション管理の建前や仕組みの成り立つ背景には、そういう本質が隠れている。

 管理組合の命綱である管理規約の有効性も、この事情と無関係ではない。

| muraitadao | コラム | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること58:投票】YESかNOかをたった1枚で意思表示する仕組みの意味を考える

棄権したことなんか一度もないが、弾む気持ちで投票所へ出かけたこともほとんどない

 都議選挙が告示された。

 いままで一度も棄権したことはないから、7月2日には必ず投票するつもりだ。

 だが、考えてみると、65年の間、選挙で自分の意思表示ができる機会に恵まれた充実感や気分の高揚を経験したことは、ほとんどない。

 選挙が告示されれば、もちろんいつも投票に行く気持ちになっている。

 だが、気が進まないのを我慢して嫌々ながら投票所へ足を運ぶというほどではないものの、《この一票》の重さを確かめるのとは程遠い気分だ。《とにかく投票だけはしなければ・・・》という名状しがたい低迷すれすれの気分は否定できない。

 いつも選挙結果のニュースでは、当落の結果よりも、いったいどのくらいの人が投票所に出かけたのかという投票率の方がはるかに気にかかる。

 だから、当選者が躍り上がってバンザイを叫んだり《国民の皆様の信頼にこたえます》などと興奮気味に語る政治家を見ると、冷え冷えとして醒めた気分になる。

 あれほどの低い投票率で当選したのだから、『支持した人』よりも『支持したかどうかわからなかった人』の方が間違いなく多かったのに、よくも、まぁ、あれほど有頂天になれるものだな・・と思う。

 選挙という仕組みの意味は《適任者を数で決める》点にあるのだから、投票率が低ければ《適任者とみなされたかどうかがわからない》人の割合がそれなりのレベルになっていることははっきりしている。いちばん肝心なことが確かめられていない状態のまま《決まった》ことになってしまう割り切れなさが後を引くことになる。

 さらに《支持した》場合も、選挙の時に投票した人が考えていたとおりに当選者が本当に役割を果たすかどうかは、確かめようがない。すべては、これからだ。当選した後の様子を断片的なニュースなどで見るしか方法がない。

 すべては《支持して投票した人の手が届かないところ》で当選者がやることや言うことを見ているだけだ。橋がない大きな川の向こう側の光景をなすすべもなく見つめ続ける気分に近い。

 もう、やめよう。何だかむなしい気分になってきた。
                   ☆
 今度の都議会議員選挙がそうならないなどということはあり得ない。

 でも、今更それを気にしたって仕方がない。どうなるものでもない。

 だから、7月2日の投票には必ず行く。

投票用紙に名前を書いた人が明日から何をするかがどこまで見通せるか…

 考えてみると、選挙とか投票という仕組みには、わかったようで実はよくわからないところがある。投票用紙に「名前を書く」ことは「その人の考え方を納得して任せる」信任行為だということにはなっても実際にそうなるとは限らないからだ。

 投票用紙に名前を書くのは、その人の過去の評価ではなくて、あくまでも選挙時点で、これからの役割を実現してくれる可能性の予測なのだ。いわば、その候補者が「考えてくれそうなこと」「やってくれそうなこと」という期待が含まれた予想を一枚の紙に託して投票することになるのだが、本当のところ、予想は予想でしかない。

 ただ、その予想は候補者の経歴とか公約とかを手掛かりにしものとなる。

 絵にかいたような経歴のエリート官僚出身の、さも有能そうな人物が当選した後、人の目に見えないところで聞くに堪えないほど口汚い罵詈讒謗(ばりざんぼう)を重ねるなどということは誰も予想しない。

 手掛かりとしてわかることが「何とか大学を卒業して何とか省のエリートだった」とかいう経歴だけで、その人物の人間性については何も手がかりがない状態でもそれは誰も気にしない。素晴らしいキャリアの人が口汚く金切り声で狂乱状態になって当たり散らすなどとは、誰も予想しない。

 でも、実際には、予想しなかったようなことが起こる。

 そうした形で、予想はやはり予想でしかなかったことを思い知ることになる。

 選挙や投票の本質に隠れている予想という要素の読み切れなさを、今まで、もう何十年も選挙のたびに思い知らされ続けてきたよな気がする。

選挙、投票という仕組みの弱さ・マンションでは果たして大丈夫か

 選挙とか投票という仕組みに隠れている、こういう不安は、どんな場所であっても基本的には同じだろう。分譲マンション管理の仕組みの当事者となる管理組合の組織運営でも同じはずだ。

 ただ、少し違うのは、選挙とか投票という仕組みで投票が意思表示の手段として成り立つ前提である。どんな場合も、投票する人は誰もが《同じマンションに住んで生活条件を共有する》からだ。《ウチのマンション》という共通する生活条件が、マンション管理の仕組みでは選挙や投票に特有の意味を持たせることになる。

 しかし・・・。

 この前提は、同じマンションに住む人同士が、お互いに認識しあっている状態が実現していなければならない。なのに、顔と名前が一致しないとか、どんな仕事をしているのかわからないといった状態でこの前提が成り立つのか。

 わからなくなってきた。

| muraitadao | コラム | 11:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること57:マンション61年】四谷コーポラス建て替えのニュースで思い浮かぶ数限りない感慨

11年前このブログの第1回に「四谷コーポラス」のことをめぐる様々な思いを書いたのだが・・・

 「四谷コーポラス」が建替えられることになったという。《それがどうした?》などとは、誰にも言ってほしくない。

 11年前の2006年(平成18年)11月26日にスタートしたこのブログ第1回に、四谷コーポラスのことを書いた。そのときのタイトルは次のようなものだった。《民間分譲マンション半世紀の証人「四谷コーポラス」のことを誰も言わないから》。

 ブログを書くようになるまでの長年マンションや住宅ローンのことをいろいろ書いてはきたものの、ブログを書く感覚はまだ正直に言って呑み込めていなかった。

 そんな中で、書きながら、ふと、今月は11月だ・・、そういえば四谷コーポラス竣工の月だったな・・という連想が浮かんできて頭の中に浮かぶ言葉をそのまま字にする気分で書いた。

 思えば、このマンションのことをセミナーや講演会で話の枕にどのくらい使わせてもらってきたことか。原稿の前文に何回ぐらい書かせてもらってきたか。

 マンション管理に寄せる関心が深い人を四谷の現地に案内したこともある。

 マンションの原型を語るときには、いつもこのマンションのことが頭にあった。それもこれも、このマンションが敗戦後10年そこそこの時期の物件だったからだ。

 1956年(昭和31年)11月竣工。エレベーターなしの5階建て。《もはや戦後ではない》という経済白書の言葉が複雑な実感を生んだこの時代、233万円と156万円の28戸が三か月で完売。住宅ローンなどなかったが、信販会社(日本信販・現在の三菱UFJニコス)が分割払いで売り出した時の利率は元利均等返済で年12%だったと聞く。

 そんな時代に生まれたマンションが、61年間も建ち続けていた。

 驚くべきことではないか。

このマンション建て替えについて《誰も言わない》のは依然として今も同じか

 このブログの第1回で四谷コーポラスのことを書いた時のタイトルに「誰も言わないから」などとひねくれた言葉を入れたが、10年以上たった今も状況はあまり変わっていないようだ。

 四谷コーポラスの建て替え計画は、このマンションの管理組合ではなく建替え事業を担当する旭化成ホームズと旭化成不動産レジデンスの両社が連名で発表した。旭化成というそれなりの規模と歴史のある企業の系列会社の発表だから、管理組合独自の発表よりも情報発信力はあったと見ていいだろう。

 現に、この発表でそれなりのニュースを流したところもあった。しかし、それも業界紙を除けば毎日新聞の夕刊ぐらいで、大半のメディアは流さなかったと思う。どの新聞もテレビも役所の文書の忖度だの北朝鮮のミサイルだのばかりだったから。

 そのせいかどうか、マンション管理関係者の中でも、このニュースを知っていた人はあまり多くないような気がする。

 そんな中で、旭化成ホームズと旭化成不動産レジデンスのプレスリリースは、ありきたりの発表資料と違ってかなり中身が充実していた印象が強い。

 2017年5月30日付けのプレスリリースは7ページある。

 タイトルがやや長いが、そのまま紹介する。『1956年竣工・築61年、日本での民間分譲マンション第1号「四谷コーポラス」建て替えについて〜民間分譲マンションとして初めての管理運営や割賦販売の歴史も〜/〜区分所有者の9割が再建マンションを取得予定〜』

 本文には次のようなことが述べられている。

,海3月29日に管理組合の建て替え決議成立、5月に全員合意、9月に解体工事着手の経過であること。

△海離泪鵐轡腑鵑篭菠所有法以前に実現した管理方式で運営され、住宅ローン登場以前に割賦販売で売り出されたこと。

2006年から建て替え・大規模修繕工事の検討会がスタートしたが、耐震性、給排水設備老朽化などにより建て替え決議に至ったこと。

な件が小規模のため床面積増床のメリットはないが、立地の良さや愛着の強さがあって区分所有者の大半が再取得する前提で要望や想いに応える計画となったこと。

 この後、「機ゥ泪鵐轡腑鵑領鮖砲涼罎任了傭コーポラスの位置づけ」「供セ傭コーポラスの建物概要」が写真と表や図面を添えながら5ページ足らずのスペースで説明されている。

 最後に〈今後の情報公開とお願い〉と題して次のようなことが書かれている。

8月まではまだ住んでいる人に配慮して現地内外の撮影は遠慮してほしいこと。

9月の解体前にマスコミ向けの説明会や撮影会を予定していること。

7築研究者を含む一般向けの現地公開を検討中であること。
                   ☆
 正直な感想を書く。

 基本的に企業ベースでまとめられた資料だが、よく考えて工夫された内容になっていると思う。このマンションの建て替えについて書いたり語ったりする人の大半は61歳にはなっていないだろうから、このマンションができた時代背景など想像しにくいはずだ。その点を考えて、在来の建て替えとの違いを理解するための要点を過不足なく盛り込んでいるのがとてもいい。ただし、注文が二つある。

 一つは地図をぜひ添えてほしいこと。居住者の愛着とも関わる四谷本塩町(よつやほんしおちょう)のロケーションがこの建て替え計画と大きく関連しているからだ。

 二つ目は、居住者の思いなどを伝えられる工夫を今後の機会にぜひ考えてほしいこと。このマンションの建て替えに人の温もりを感じたいからである。

| muraitadao | コラム | 10:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること56:格差】生き残れない管理組合もある怖さに語り手たちは気づいているか!?

経済格差、地域格差、世代間格差…。当事者が抜け出せないから「格差」という言葉には辛い響きがある?

 このごろ「格差」という言葉の書名の本が多くなった。

 でも、経済格差とか社会格差とかいうレベルなら、まあ以前の《品格》本のような現象で本が売れてほしい一心の出版社の苦労の産物だと思うから、別にどうということはない。

 以前の品格ブームは「国家の品格」という本がやたらに売れたのがきっかけだった。国家に「品格」などという言葉が当てはまるのかという奇妙な違和感があったが、本はよく売れたらしい。その後、売れ行きほしさ丸出しの感じで「女性の品格」だの、「会社の品格」だの、果ては「遊びの品格」という類の本まで登場した。

 この分なら「出版社の品格」というのが出るかもしれないと楽しみにして待ち続けていたが、当てが外れた。自分のことに「品格」を付けるほどの浅ましさは、さすがの出版界にもなかったらしい。

 しかし、「格差」には「品格」よりももっとリアルな重い響きがある。

 「子ども格差」とか「美貌格差」「団塊格差」などという書名を聞くと、むき出しなほどの露骨さがあって何とも嫌な気分になるではないか。

 ともあれ、「格差」という言葉を使った書名の本が続々と出るのは「格差」という言葉が気になる人が多いという確かな背景があるからだと思い当る。

 自分の置かれた立場を何とかして抜け出したいのにそれが思うに任せない切実さを抱えた人が多いのだ。そういう人の多さに向けた出版界の視線が、こういう書名の本の向こう側に間違いなく浮かび上がってくる。

 あらためて思うが、「格差」は嫌な言葉だ。《他人(ひと)との違い》が気にもならなかった時代には、こんな言葉が流行ったりしなかった。

 昔、「一億総中流」などという言葉があった。もはや遠い過去の言葉になって、気がつくと、何かにつけてわが身を周りと比べる人が多い時代になり《他人と比べたわが身の違い》がことごとに気になるようになっていた・・・。

 それでも、しかし、その違いはどうにもできない。

 ただ、もう、ひたすら我慢するばかりだ。

 「格差」という言葉に特有の怖さが生まれる理由は、ここにある。だから、「格差」には「運命」に似た重くて辛い響きがある。

ストック戸数が増えたからマンションでも「格差」が気になり始めたことは何を物語るのか

 うっかりして気づくのが遅かったが、国交省はつい先ごろ国交省が発表した「分譲マンションストック戸数」によると、2016年末現在でのマンションは633.5万戸になるらしい。

 この5月29日号のAERAが掲載した「大特集・マンションを長生きさせる」という特集の最初に「無関心でボロボロに/他人事ではないマンション管理問題」という記事があった。その始めの方に《現在、分譲マンションの数は約613万戸。》と出ている。

 しかし、これは平成26年末現在の数字であって、最新のデータではない。

 せっかく力のこもったいい記事なのに、記者が最新の国交省発表に気づかなかったらしいのが惜しまれる。もし気づいていたら、国交省データには「築後30、40、50年超の分譲マンション数」というのがあるのだから、もっと掘り下げた記事になったのではないかという気がする。とても残念だ。

 いずれにしてもマンションがこれだけ多くなれば、どうしたって新旧大小の違いが生まれる。マンションにも「格差」という嫌な言葉が否応なしに持ち込まれざるを得ない時代が来たと思う。

わかっていないのに気づかぬまま勘違いだらけでマンション格差を論じられても迷惑千万!!!

 こうなると、最近見つけた本のことを書かなければならない。国交省がこれほどはっきりと高経年マンションの推計を示すほどなのだから、今や633万戸を上回るマンションでは新旧大小様々に異なる物件がまざまざと「格差」を実感させながら並ぶことになる。

 となれば、マンションごとの格差は今や目前の現実的な課題になっているのだ。

 これは少しも予想外ではない。もう20年以上前から機会あるごとに言い続けてきたことだが、最近、こうしたことを改めて表立って唱える本が出るようになった。

 「マンションは10年で買い替えなさい」だの「マンション格差」だの・・・。

 この手の本は、マンションの売買で儲かるように、損をしないようにという視点だけの産物だ。マンションが「住む」ための生活基盤だという視点は著者の念頭にまったくない。

 遺産相続のコツを語るコンサルタントや、マンション広告のコピーライター経験程度の持ち主には《マンションが住む場所》だという感覚があるはずもないのだから、当然といえば当然なのだが・・・。

 国交省が発表したデータによれば《1500万人を超える人が住むマンション》には様々な「格差」が現実に生まれている。マンションに住んだ感覚などそっちのけの損得勘定だけでマンションを考える手合いは、想像外のことだろうが・・・。

 わかってもいない人にわかった顔であれこれ言ってほしくない。

 気づくべき人に気づいてほしい。気づくべき人が気づかないと、打つ手が間に合わなくなる。

 だから、「格差」は怖いのだ。

| muraitadao | コラム | 08:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること55:戸数】これだけ新旧大小さまざまでもマンションストックがわかるのは戸数だけ?

気がついたらいつのまにか国交省のマンションストック戸数データが発表されていた

 《いま日本にはマンションがどのくらい建っているのか》という極めてシンプルでありふれたことを確かめられるデータはありそうで、実は、なかなか見つけにくい。

 だから、国交省が毎年発表する「分譲マンションストック戸数」データは、とても貴重である。毎年4月ごろ、前年12月31日の数字が公開される。ソースは建築着工統計。ストック戸数は《新規供給戸数の累積等を年末にまとめた推計》だという注があるが、唯一の全国データだから信頼度は高い。

 このデータはごく最近まで2015年(平成27年)末現在の数字しかわからなかった。つまり、一昨年の数字しかなかったことになるが、この時期だし国交省の都合もあるのだろうから・・・と思っていた。

 国交省は情報発信にはそれなりに熱心で、登録しておけば毎日夕刻から夜にかけて部外に公表した情報をネットで定期的にきちんと知らせてもらえる。この仕組みのおかげで、ずいぶんいろいろなことを知ることができた。

 昔の官僚感覚だったら考えられないサービスで、率直に感謝している。

 ・・・のだが、この春は4月が過ぎようとしても一昨年のデータのまま一向に変わらなかった。が、しかし、それはこちらが知らなかっただけだった。

 5月に入ってネットを見ていたら、いつの間にか新しい2016年(平成28年)末のデータが発表されていた。あれれと思った。

 それによれば、前回のデータは623万戸だったが、今回は633.5万戸。1年経っても10万戸増えた程度だったことがわかる。

今回は築後30〜50年超のストック数も発表された。そこまで考えてくれるなら棟数や階数も

 黙ったままオープンになったのを気がつかなかったのは、こちらの手抜かりだから、それは、仕方がない。

 しかし、今回は今までと違って「築後30、40、50年超の分譲マンション数」というのが発表された。「築30年超〜40年未満」「築40年超〜50年未満」「築50年超」の数字が5年後、10年後、20年後にわけた縦棒グラフは大まかだが、それだけにストレートな迫真性がある。

 問題提起的なデータとして貴重だと思う。

 そこで、ここまで考えてくれるのなら。ぜひ注文したいことがある。

 それは、マンションストックを戸数だけでなく、棟数、階数でも区分したデータがほしいという点だ。

 説明の必要もあるまい。

 ずいぶん前から標準管理規約は《単棟型》《団地型》《複合用途型》に分けてきた国交省なのだから、マンションの実情が複数棟かどうかで違うことはよく承知しているだろう。1棟だけを単棟と呼ぶ考え方では1棟が5階建てと30階建てでは実情が把握できないこともわかっているはずだ。

 これだけ大戸数の超高層マンションが増えているのだから。

 ならば、マンションストックを戸数だけで理解していいわけがない。データソースが建築着工統計なら、そういうことも可能ではないのか。

もう一つの注文・世帯で居住人口をとらえる発想は再点検した方がいい時期ではないか

 もう一つ注文がある。マンションが人が住んでこそ意味がある。マンションストックのリアルな意味が居住人口データと関連付けられて成り立つのは当然だ。

 だから国交省がいつもマンションストック戸数に居住人口を添える形で公表しているのは、適切なやり方だと思う。

 しかし、その居住人口を国勢調査データの数字で示す都市・地方の地域差がない単純な方法は、果たして妥当なのか。少子高齢化や非婚化が際立って進む都市型集合住宅であるマンションの居住実態をこの方法だけで確かめられるのか。

 住む人の実情が把握されていないと、マンション管理は実現が年ごとに難しくなる。管理組合の主体として法律が考える管理組合の組織的な当事者能力は衰弱するばかりだ。

 何も言わないまま、いつかは…と思っている管理組合現場の声が国交省に届くかどうかは、マンションストックに対応する居住人口データ把握が実現するかどうかで占えるような気がするのだが…。

| muraitadao | コラム | 04:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
【語り尽くされていないこと、見逃されていること54:賛否を問う】YESとNOは「誰に」なのか「何に」なのかで決めた後が大違い?

外国の選挙結果が他人事でなくなってきた理由はいったい何?

 フランスと韓国で、大統領選挙が終わった。アメリカでは、昨年の選挙で新しく大統領になった人物の言動が何かにつけて物議の種になっている・・・。

 外国の選挙が《遠いよその国》の話ではない感じになってきた。別にさしたる関心もないまま聞くともなしに聞いて、そのうち忘れてしまうのが普通だったが、今はちょっと違う。

 成り行き次第で、いつ、こちらに「とばっちり」が降りかかってこないとも限らないというホンのかすかな気がかりが、ニュースを聞く頭の後ろ側に浮かんでくる。

 あながち市井の一市民の取り越し苦労とも言えまい。

 よその国の選挙の話が気になるのには、そういう「とばっちり」の予感に似た感じが絡んでいるせいかもしれない。

 選挙とか国民投票、住民投票という物事を決める仕組みが世界共通になってきたために、手段の共通性が身近な現実感を生んでいるからだろうか。

 誰もがぶつかる厄介な課題。ほとんどの人が関心を持っているのに、意見が分かれて簡単にまとまらない・・・、どうしたらいいか・・・。いったい、みんなどう考えてるんだろう・・・。いっそ、もう聞いてみたら・・・。

 そこで、選挙とか住民投票や国民投票となる。そこまでいかなくても、世論調査やアンケートぐらいにはなるだろう。こんなこと、もうザラではないか。

 となれば、どんな方法であっても、結局のところ《賛成するかしないか》を数だけで確かめるのがいちばんいい。何しろ数には誰も文句をいえないのだから。

でも 何に「賛成か反対か」を問うた後には 途方もない怖さが待ち受けているかもしれない

 《賛成するかしないか》みんなの胸のうちを聞いてみようじゃないか、ということ自体には誰も逆らえない妥当性がある。その結果が数字になれば、もう説得力は絶対なのだから。

 でも、いったい、何に賛成するかしないか》と《誰に賛成するかしないか》とでは、意味がまるで違う。

 「何に」ならば、仕組みを変えることの是非を聞く住民投票や国民投票になる。この点は、大阪都制もEU離脱も変わらない。《物事の決め方を変えた場合、その結果の変わりようを受け入れるかどうか》で賛否が分かれてもめた話の成り行きが決まるのを誰もが承知しているのだから。

 「誰に」ついて問うのなら、選挙だ。「誰に」というのだから《判断を任せる人間の当否》を聞くことになる。

 住民投票や国民投票のように言葉でイメージを説明できることを聞くのなら、仕組みの変更を決めた結果起こることをある程度まで予想しながら賛否を確かめることができる。

 だが、選挙の方はここが違う。「候補となった人についての賛否」を問うのだから、選んだ人の人間性や判断力への信頼が大前提になる。いったん信頼する人を決めた後は、その人の判断には絶対に従わなければならないのだから。

 いまのアメリカがそうだし、これからフランスや韓国もそうなる。

 日本だって、そこは同じだ。

 でも、「何に」を聞くか「誰に」を聞くかの違いがあっても《賛成か反対か》を問われた人の数だけで結果を確かめる点は全く変わらない。方法が違っても「聞く」「答える」プロセスを数だけで展開する制度の構造は同じだからだ。

 選挙も国民投票も住民投票も、結局《問いかけられたことに投票して答える》形は同じであって、答えた結果が数だけに飲み込まれてしまう。老弱男女、強弱、貧富、賢愚、巧拙・・。答えた人を物語るそんな属性はみんな消え失せてわからなくなる。

 考えてみると、これは、とても怖いことではないか。

 その怖さを何とかしたければ、《[聞く]ことの説明に十分な手数をかけ「答える」べきことを考える時間を確保する》しかあるまい・・・・  

マンション管理の現実が「物事の決め方」にあることに現在のルールが対応できる限界が来ているか

 ・・・などと考えているうちに、マンションの管理組合では、この辺のことがいったいどうなんだろうといういつもながらの感想が浮かび上がってきた。

 感想は簡単だ。「選挙」とか「投票」などという手段に言い及ぶのを避けたまま、法的な有効性や賛否の確認手続きが比率によって示されているだけのルール。

 いちばん大事な点がすっぽり抜けて、手順と数字による結果の確認だけが法的な強制力に裏付けられてきたルール。

 《マンションが大邸宅》の意味だという博物館レベルのイメージで考えられていた時代の発想に支えられたルールが、ストック戸数600万戸を超え新旧大小高低、様々となった今も中心になる実情。

 マンションは動物園ではない。様々な人間が大勢集まって住むところだ。至近距離で異なった意見や考え方が絶えずぶつかり合い、誰かが折り合いを求められる世界だ。

 ならば、そうした厄介な実情をどうにかできそうな方向を探り当てて意見の違う者同士が同じ顔ぶれのまま住み続けるためのルールが欠かせなくなる。

 ・・・でも、ここから先はいつもと同じことになりかねない。またにしよう。

| muraitadao | コラム | 14:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
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