村井忠夫のマンション管理ブログ

村井忠夫のマンション管理ブログ
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 37】秋の夜。玄関側から見るかベランダ側から見るかで表情が違うマンションの素顔

よそ行き感が漂う玄関側の画一的な夜景、普段着の生活感がただようベランダ側の夜景

 マンションは、どんなところから見るかによって、表情がまるで違って見える建物ではないか。

 帰宅が遅くなったような時、夜道から見たマンションが昼間とはかなり違って見えるような気がする。何十年も住んできたわが住まいのマンションに何も珍しさはないのだが、周りの住宅の中で突き抜けて見える建物の夜景にかすかな安心感を覚えて、いつも、そう思う。

 たぶん、それは灯のせいではないだろうか。

 昼間はコンクリート壁の無機質な外観むき出しのマンションも、夜になると建物自体の大きくて不愛想な感じが暗い闇に消えて灯りだけが見える光景の印象が、そんな感じをもたらすような気がする。

 灯りは、いつも人の気配を生む。

 秋の夜は、とりわけ、そうだ。
                   ☆
 遠い遠い昔、太平洋戦争中。まだ10歳代の後半だったころ、夜はいつも暗くて、不安で、不自由だった。いま息をしているこの自分が、明日はどうなっているのだろうかと思う。灯火管制、警戒警報発令中、明日は学校動員で造船所の工場に行くことだけはっきりしていた。

電灯のまわりを覆った布切れ、ガラス戸に貼った縦横斜めの紙・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 だから、戦争が本当に終わったことを実感したのは、夜になって、何も気にしないまま灯りをつけてもいいよ、ということになった時だった。もう明るい灯を誰にも気兼ねしなくていいとわかった・・・。

 日が暮れてから本当の平和の到来を確かめた記憶は、今もありありと残っている。

 秋の夜の灯は、今もそんな記憶を呼び起こす。

秋の夜の灯の記憶が戦後の生活を思い起こさせ、住宅の飢餓感を思い出させる・・・。そんなトラウマが戦後住宅政策の背景にあったと今にして思い知る

 秋の夜、遠く近くにまたたく灯を眺めた時の記憶は、やがて戦後の暮らしの光景に続く。誰もが、ひもじいすきっ腹の時代だった。誰もかれも、みんなガツガツしていた。

 “ヨイトマケむかし夫人がいま人夫”などという川柳をどこかから聞いてきて大笑いしながら溜飲を下げたことを、今も思い出す。

 住む所がない時代だった。壕舎などという、今はもう死語となってしまったような言葉に他人事でない実感があった。

 だから、誕生して5年目の住宅金融公庫に入った時は、複雑な気分だった。

 やっと就職できたという思いの一方で、住む所がなくて困り果てた人の相手になる苦しさが重なり、大したこともできないのに期待ばかりされる苦しさが来る日も来る日も続いた。

 430万戸。

 これが、そのころ何かにつけて聞かされた住宅不足戸数だった。

 住宅が足りないのだ、住宅が足りないのだ、住宅が足りないのだ・・・。

 朝日新聞に連載された獅子文六の小説「自由学校」が大評判になった。神田川のお茶の水橋に近い土手にバラック小屋を建てて住み始めた男の物語だった。本当にそんなことができるのかと思った人はほとんどいなかったと思う。

 テレビもまだだったこの時代、松竹と大映で異例の2社映画化となったっけ。

 住まい不足が、それほど切実な時代だった。

430万戸の不足から空き家だらけに悩む時代へ。こうなることは昔からわかっていたのに・・・

 住宅金融公庫で住宅に関わり始めて何年たったころだっただろうか。

 丸善だったかもしれないが、書店で「高齢化社会研究」という雑誌だか本だかわからない刊行物を見つけて読んだ。東京大学出版会の発行だった。

 読んだことをもうすっかり忘れてしまったのに、読んだ時のショックを覚えている。いずれ、こんな時代がやってくるのだ、と。

 年月がたてば、モノは必ず古くなり、人は必ず齢をとる。

 それを考えれば、今せっせと建てている住宅が、そのころどうなっているか。
                   ☆
 そうならないように打つ手がある。その真髄が管理だ。

 若かった身は、そこまで頭が回らなかった。誰もが、そうだった。こんなに困っている人がいるのだから、一戸でもたくさん建てなければ・・・。

 住む人がいなくて、空き家だらけになる時代が来るなんて、そんなことを夢にも考えなかった時代だった。
                   ☆
 住宅金融公庫に入った若手の新人の仕事は、管理だった。若手には最初から融資などをやらせずに、貸した金の回収をやらせればいいという考え方の仕事だった。

 早く言えば債権回収。当時は取り立てだった。

 政府系の機関でも、管理がそんな感覚で考えられていた時代だった。
                   ☆
 管理はエリートが目を向けることがない分野だった。管理で点数を稼いだ人がエリート官僚として天下ってくることもないと実感する年月の始まりだった。

| muraitadao | コラム | 08:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 36】マンション管理組合の役員をエリート居住者が求められたら・・・

どこのマンションでも管理組合の役員選びで打診された人の心境は・・・

 どこのマンションにも管理組合の役員を絶対に引き受けない居住者が必ずいる。こういってもたぶん間違いあるまい。

 無関心だから引き受けないのではなく、ちゃんとした関心があって理屈も心得ているのに引き受けないのだから、確信犯的な役員拒否タイプとも言える。

 そんなことはないと言えるマンションはゼロではないかもしれないが、限りなく少数だろう。

 理由ははっきりしている。管理組合という組織の運営が決して理屈どおりに進まないことを、マンションに住む人は誰でも知っているからだ。

 区分所有法や管理規約に書いてある理屈通りにことが運ばない管理組合では、すべてのことが応用問題になる。法律に書いてある通りにやればいいと考えて理屈通りに取り組んでいけば答が見つかるなら苦労はないが、実際は決してそうはいかない。

 そうであることは、もう30年近い前からはっきり確かめられてきた。
                   ☆
 だが、そうはいっても、理屈は理屈として尊重しなければならない。もし万が一にも理屈を無視したら、マンションはたちまちにしてノールール化してどうにも収拾がつかなくなってしまうからだ。

 だから、どこのマンションでも、大抵の人は、理屈が欠かせないことも、管理規約が持つ重い意味も理屈の上ではちゃんと理解している。

 しかし、そこまでわかっていてもいざ自分自身がその理屈とどう関わるかということになると、たちまちにして発想が瞬時に変わってしまう。

 「わかっていること」と「できること」は同じではないと、誰もが考えるからだ。「わかったこと」の中には「わかっても実行できるとは限らないこと」が含まれるという理屈が浮かび上がってくるのだ。

 「事情を納得できても、その事情に自分自身が関わるかどうかはまったく別の話」だという気分が必ず胸の底に湧いてくる。「自分がやらなくても、このマンションにはやれる人がほかにまだまだたくさんいるではないか」という気分といっしょに。

 役員選びの時期になって意向のほどを打診された人は、大なり小なりこうした気分を味わったはずではあるまいか。

ウチのマンションにはほかにもたくさん住んでいるのになぜ・・・という感覚を責められるのだろうか

 こんなやりとりの時、多くの人が思い浮かべる「ウチのマンションには、こんなにたくさん住んでいるのに、なぜ自分に…」という心境。

 だが、この心境の思い浮かべ方は人によってかなり違う。

 「たくさんの人」が中村さんと山田さんと、佐藤さんと、木村さんと、鈴木さんと、田中さんと、それから・・・というふうに名前で浮かぶ人と、そうではなくて「1階の玄関から何戸めのあそこ」とか「4階のエレベータ―近くのあの住戸」という名前抜きで住戸の位置だけになる人では、《たくさんの人》のイメージがまるで違うからだ。同じ生活条件を共有して、いつも会う人の顔と名前が一致するかどうか、会った人が固有名詞でわかるかどうかという対人認識の問題でもあるのだ。

 「知っている人」を見極める目安の一つは、普段の生活でいつも顔をあわせるかどうか、会った時に声をかけるかどうかといった点だろうし、それをさらにさかのぼれば、会った人の名前がどのくらいわかるかということにもなる。

 玄関やエレベータ―などで会った人の顔がわかるかどうか、エレベーターで二人っきりで乗り合わせた時に何か話しかけるかどうかという日常的な生活感覚の問題でもある。

 この点には、その人の年齢や仕事、ライフスタイルなどいろいろな条件が関係するだろう。同じマンションに住んでいても、働き盛りのサラリーマンと年配者の学校の先生ではまるで違う。お互いの顔さえわからないことだって、ないとはいえない。

 そう考えれば、マンションにはこんなにたくさん住んでいるのに・・・とは言っても「たくさんの人をどのくらい知っているかどうか」という点になると、話は微妙に違ってくる。

 まして、竣工後年数が長くなったマンションや大規模マンションでは「知っている」戸数は、むしろ年がたつほど少なくなるという実情がある。顔見知りの人であっても、会う機会が少なければ本人はもちろん家族も大なり小なり実情が変わる。

 マンションは古くなるにつれて対人関係がわかりにくくなっていく世界なのだ。

マンションに住む人の実情を考えれば「管理組合が区分所有者の団体」だという理屈が当てはまる実感は・・・

 要するに、最後は「人と人とのわかりあい方」の問題になるだろう。

 人と人とが《わかりあう》というのは、《よく会うかどうか》という問題でもある。さらに言えば《会った時に声をかけ合うかどうか》という問題になる。

 声をかけるというのは、短い会話だ。会話は目前の人との話題の共通性がなければなり立たない。目前の人と通じ合える言葉で話す話題があるかどうか、身近な場所にいる人への関心があるかどうかということでもある。

 たったこれだけのことだが、日常生活のレベルになると理屈ではない個人差があるような気がする。もう少し詳しく言うと、身辺に漂わせるある種の匂いのようなものかもしれない。

 言葉にして書くのがとても難しいのだが、例えば、駅への行き帰りに出会うこともないし、ゴミ出しの日にエレベータ―で乗り合わせることもない人とでも言ったらいいか。

 しばらく見かけないが、以前は毎朝いつも迎えの黒い車が来ていたなんだか偉そうなあの人、今も住んでいるらしいけれど、管理組合の役員なんてとてもとても・・という感じの、あの住戸の人。管理組合は区分所有者の団体だという理屈を一番よく理解していながら、一番当てはまりにくい人。

 このあたりで、エリートという言葉がだんだん実感を持って浮かび上がってくる感じになる。
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 ルールや約束事の上では、そんな感じの人たちも数字の上では同じ扱いになる。

 管理組合という世界の真の難しさは、こういう厄介な人間像と組織イメージ確保のバランスの取り方ではあるまいか。

 この実感は40年をはるかに超える今も変わらない。

| muraitadao | コラム | 09:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 35】わかっているが何も言わない「そのほか多数」が実際には管理組合を動かす

マンションに40年以上住んでいながら管理組合の集会では一度も会わない人って実はけっこう多いよね

 マンションに竣工以来ずっと住んできた人は、もちろんほかに何人もいる。長年住んでくれば会う機会も多くなるからそれなりに顔見知りになるし、お互いの名前や仕事などもそこそこにわかるようになる。

 そのわかり方も、玄関やエレベータ―などで出会った時の短い会話を重ねるたびに回を追って少しずつ深くなっていく。その過程でお互いの共通点があればお互いの認識レベルはさらに大きくなり、時としては普段着の生活で交わした会話から、思いがけなく通じあえる言葉の感覚さえもわかるようになる。

 マンションに住んでお互いが知りあうプロセスは、こんな感じではないだろうか。

 40年以上も住んできて知り合うようになったのは、こういう感じの人ばかりだ。向こうのことをこちらは一応知っているし、向こうもこちらのことをだいたい知っている。たまに会うと断片的な話をするが、その場限りの、どっちでもいいことをお互いに承知の上だ。「じゃ、またね・・」と別れるまでのごく短い時間に声を交わして付き合いを確かめあった、ほんのわずかな安心感が残る。

 マンションで住人同士が会った時の感じは、普通は、まぁ、こんなものだろう。

 もちろん、この感じが逆向きの場合もあるのだが・・・。
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 しかし、こういう感じで「知っている」人の中に管理組合の集会ではめったに出会わない人が何人もいる。会えばいつも愛想よく声をかけるし、冗談交じりの世間話もするのに、総会とか説明会などの会場で顔を合わせることはほとんどない・・・。

 そういう人がいる、何人も。

管理組合?「え、何それ」という人と「わかってますよ」という人も一枚の壁を隔てただけで同じ建物に住むのは同じなのに・・・

 しかし、こういう人たちも同じマンションに住んでいる以上、何かを決めるときにはちゃんと集会の場所にいるものとして考えなければならない。実際には決める場所に出てきたためしがないのに、そう考えなければならない。

 こうして、「いない」も同然なのに無視できない、きちんとという厄介な存在感だけが間違いなくはっきりしてくる。

 だから、決める場所に出てこないことは百も二百も承知していながら、「決める」仕組みへの参加手段だけは確実に用意しておかなければならない。

 管理組合は、問題に対応するときに、マンションが「わかっている人」と「わかっていない人」を区別できない世界であることをつねに忘れてはならないのだ。

 何かにつけて必要となる管理組合の意思決定で委任状の存在が重大になる理由は、まさしくここにある。「わかっているかどうかがわからない人たち」を必ず視野に入れないとマンションの管理は実現できない。管理組合で物事を決めることが形だけになってしまい、決めたことを実行できなくなるからだ。

「わかっているかどうかがわからない」人たちが黙ったまま胸の中で何を考えているのだろうかという不安感

 同じマンションでも一つのことについてのわかり方は、実は人の数だけ違う。

 ずっと昔、マンションができたばかりのころは一億総中流だのマイホームだのという言葉が説明抜きで通用したから、考えていることは誰も同じだった。パパがいて、ママがいて、その真ん中にボクがいて・・・。土曜日だってまだ休みではなかったが、みんな同じようなものを食べ、同じような話で泣いたり喜んだり・・・。

 今の管理規約は、そんな時代にできたものが基本形ではないのか。法律談義の議論を重ねて部分的な手直しを繰り返しても元々の姿は遠い昔のまま。そんな状態が水の底に残っているような・・・。

 今では、もう中古マンションとして住むようになった人が圧倒的多数になったのに・・・。

 同じ言葉で語られたことでも聞く人によって、意味の受け取り方はまるで違う。同じような言い方であっても、年齢や仕事やライフスタイルの差によって人の数だけ受け止め方はそれぞれに違う・・・。

でも、大抵の人は、何か言うわけではない。胸の中はみんな違うはずだと思うのだが、誰かが何か言うわけでもない。ただ、もう黙ったまま。多くの人たちの不気味なこの沈黙が、管理組合に影を落としているような気がする。

「管理組合って一体、何?」と聞かれたらどう答えるか。「区分所有者の団体」という答えは今も昔ながらに説得力を持つのか

 マンションが多くの人が生活条件を共有する空間だという本質は、昔も今も変わらない。でも、マンションが住宅として持つ本質は同じであっても。その本質の現れ方は人間次第だ。何か月も何年もに渡って住んでいる人間の今の様子によって「住む」ための建物という本質は違った姿で現れる。

 住み始めたときのパパはすでに世を去ってボクはいま外国、老いたママが後に残って一人暮らしという住戸が多くなった時代に、管理組合は区分所有者の団体だという考え方でいいのか。管理組合は区分所有者の団体だから「持つ」ことだけが要点であって、「住む」という条件を「持つ」ことに重ねる必要はないのか。

 100戸足らずのマンションが多いエリアに超高層大規模マンションが生まれたら、適用対象が増加しても同じままの理屈で管理組合が今も成り立つのか。

 外国人が珍しくない時代に管理組合が組織として動く場合の言葉は、やたらに多い漢字と、主語述語の見極めさえ難しいほど日常感覚と離れた法律文感覚が集合住宅の隅々まで通用するのか。

 あれこれ考えるほど、長い年月の経過という事実を前にして管理組合がどの程度まで当事者能力を持てるのか。今のままの理屈で、これからの管理組合は大丈夫なのか。今の経営感覚で、管理会社はそうした管理組合の当事者能力維持をサポートできるのか。

 過ぎた昔に建てられたマンションの光景は、いま住んでいる人間次第で決まることは昔から果たしてどこまで理解されてきたのか。

 多くの人に関係するとはいっても、その中で何も言わずに黙ったままの人が多ければ、はるかな昔にできた手続きの正当性だけでその不安を乗り切れるのか。

  もう、やめよう。 今月1日は87回目の誕生日だった。このマンションで迎える誕生日も、もう44回目になった。

 でも、心境は複雑である。

| muraitadao | コラム | 08:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 34】マンション管理組合の広報イメージはこれからも今のままで大丈夫なのか

新聞はもはや古臭い過去の情報源になり始めたのか・・・

 10月は新聞週間のある月だが、そんなことに気がついている人はもう激減しているのではないか。

 「新聞を読んだ」「新聞に出ていた」という言い方が、どことなく時代遅れめいた古臭い感じになってきたような気がする。

 マンションに住んでいると、毎朝ドアを開けてよその住戸の様子をちょっと見ただけで今どきの新聞購読者の激減ぶりがよくわかる。

 以前は壮観な感じがするほど大半の住戸ごとにずらりと朝刊が差し込まれていたのに、もうそんな光景はない。今では、新聞を差し込まれた住戸はほんの数戸しかない。毎月1回の古新聞回収日、玄関前に置かれた古新聞の束の数も僅かで、新聞の減り方が月ごとにはっきりしていく。

 午後4時過ぎのころエレベーターで乗り合わせた新聞配達員らしい人が持っている夕刊の束を見ても、もう本当に「小脇に挟んでいる」という程度の少なさだ。

 たまに乗る電車の車内風景でも、新聞を広げている人はもう見かけなくなった。座席の人も吊革の人も、ただ、もうスマホばかり。

 かく言うわが身も、以前とは違ってきた。

 何かを知ろうとする時、以前なら「新聞に出ているだろうか」とか「新聞はどう書いているか」と反射的に考えたものだが、今では、もうそんなこともなくなった。

 机に向かっているときはつけっぱなしのラジオが聞こえてくるし、リビングに行けば四六時中テレビがついている。

 新聞をあらためて読み直すことは、もう滅多にない。

 結局、新聞は2紙を1時間から1時間半ぐらいかけて全紙面の半分ぐらいを読む程度で終わる。一度、目を通した新聞をまた読み直して確かめることはまったくない。

 10年以上前までは、毎日のスクラップが一仕事だった。切り抜きの整理がまた一苦労だったし半年ごとの整理も厄介だった。

 でも、座り込んで独自に分類したスクラップを今の目で見直していくと、新聞が伝えようとしてきたことが情報の流れとなって見えてくる。

 そうしたプロセスで読み取れた情報の意味は、想像以上に大きかった。

 その実感は、今月で87歳になったこの身体に間違いなく染みついている。一方で、古臭さの実感もあるのだが・・・。

 あれこれ考えるにつけ、新聞は古臭くなってきたとはいえ、まだまだ手離せない情報源だという気がしてくる。

新聞を読むたびに天下り役人だった昔の上役をふと思い出すことが多いのはどうしてだろうか

 だが、一方で、もう一つの実感が湧いてくるのも否定できない。言葉で説明することが難しいのだが、あえて書くと次のようになりそうだ。

 大抵の場合、読むことの一つ一つが「確かにそうだ」と思わせるような理屈がきちんと成り立っているし、読者の実感と照らし合わせても間違ってはいない。

 しかし、書かれていることを読んでいるこちらが直面しているリアルなケースのあれこれに当てはめてみると「では、どうしたらいいのか」という具体的なことは何も見えてこない。書いてあることは確かに「わかる」のだが、「わかったからやれる」とは限らない。わかっても目の前のことをどうにかするために「何をやれるか」という点につながらないのだ。

 このもどかしさは、ずいぶん昔、住宅金融公庫で多くの人に向かい合っていたころ天下りの上役が口にしていた言葉のあれこれを思い出させる。こちらが来る日も来る日も向かい合っているのはまさに応用問題だから、答の出し方はその都度違う。でも、短い時間で何とかしてその答えを見つけなければならなかった。

 その難しさが、いつも苦労のタネだった。

 天下りの上役がそう言うときにわかった顔で並べる理屈は、どんな場合にも通用するものばかりだった。確かにそうなのだが、「では、こういうときはどうするか」という肝心かなめのことになると、もう何も言わない。

 知識としての理屈が、問題に直面した人間の求める個別条件のレベルでは効果を発揮する有効な情報とならない無力感があった。理屈で固まった総論が個別ケースに対応できる応用問題を解く鍵にならないのだ。
                   ☆
 このもどかしさに似た感じが、新聞にあるといったら言い過ぎだろうか。毎月の購読料4000円ぐらいを払って付き合ってきたのに・・と思うのだが。

マンション管理の盲点・広報が新聞を事実上のよりどころとしてきた状況は今も・・

 マンション管理では、今も相変わらず広報が盲点のまま残されている。

 大勢の人が居住条件を共有しながら住むマンションで望ましいレベルの管理を確保するための情報発信は欠かせないから広報は間違いなく管理組合の組織維持を左右する基本条件の一つなのだが、管理組合向けに有効な広報活動のための情報が送り出された試しがない。

 だから、法律論に熱をあげる人ばかりで広報を語る人は滅多にいない。

 そんな状態だから、何かを知らせる必要にいつも迫られ続けている管理組合は、有効な情報が何もないまま、自分たちの知恵で何とかしなければならなくなる。

 しかし、管理組合は組織運営の素人集団だから、何とかしなければとは思っても、具体的な取り組み方がわからない。

 そこで、大抵の管理組合はなけなしの知恵を傾けて、おぼつかない感覚の広報を進めようとする。

 こう言うときに、情報発信に不慣れな管理組合が《知らせ方の目安》として考えるのが、新聞である。

 しかし、実は、そういうふうに思っているのは年配層の管理組合役員だけであって、知らされる方の立場ではもう新聞を読んでいない人が大半なのだ。

 「知らせる」立場と「知らされる立場」の間に、こういうギャップが生まれているのだが、そのギャップはそれほど気づかれていないことが多い。

 そこで、どうなるか。

 知らせ方に慣れていない管理組合が、不慣れなまま「これなら大抵の人に知らせられるはず」と考えて発行する広報は新聞スタイルになる。

 しかし、イメージのモデルに想定される新聞は、今もそれほどのものになってはいない。情報発信側は経験もないまま費用と時間とエネルギーを傾けて何かを知らせようとするのに、肝心の居住者、区分所有者には有効に情報が届く見込みが極めて薄いという状態が生まれる。

 こんな状態が生まれる理由の一つは、今もなお新聞が《何かを知らせる》情報の有効手段として想定されているからではあるまいか。

| muraitadao | コラム | 09:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 33】マンション管理を支える仕組みは「人とつながって住む」気づきだと知っている人はどのくらいいるか

マンションがホテルと違うのは「泊まる」のではなくて「住む」ところだからだが・・・

 大きな建物の一部屋をある日数にわたって自分だけが使うという意味で、ホテルとマンションはちょっと似ている。その証拠に、リッチな有名人のホテル住まいの話は、よく聞く。

 だからと言って、マンションもホテルも似たようなものとは言えない。壁や床を隔てただけで名前も知らないよその人と同じ建物の中で幾日も過ごすのだからマンションもホテルも同じようなものさ・・・というふうに、さもわかったような顔で、わかったような口をきかれては、迷惑この上ない。

 わかりきったことを百も二百も承知の上で、あえて書く。

 ホテルは「泊まる」ところだが、マンションは「住む」ところだからという点が、この二つの言葉の勘違いにこだわる理由だ。

 こだわりついでに、国語辞典を開いてみた。「広辞苑」「大辞林」「新明舞国語辞典」「岩波国語辞典」の4種。どれも刊行中の最新版だが、以下のように書かれている。なお、旧版でも特に説明の仕方は変わっていない。

住む
【大辞林】所を定めて,そこで生活する。 «住» 「町に ─ ・ む」
【広辞苑】居を定めてそこで生活する。すまう。
【岩波国語辞典】所を定めて,そこで生活する。 「東京に――」「マンションにー―」
【新明解国語辞典】[人が]決まった場所で暮らす。

泊まる 
【大辞林】 自分の家以外の所で夜を明かす。 「もう遅いから ─ ・ っていきなさい」
【広辞苑】(居を定めて)滞在する。住みつく。
【岩波国語辞典】ある期間そこに宿る。 「ホテルに――」
【新明解国語辞典】自分の家以外の所で、夜を過ごす。

自分の日常がほかの人との関わりに支えられているという気づきがマンション住まいのセンスをありありと浮かび上がらせる・・

 「泊まる」「住む」という二つの言葉を並べてみると、何となく気になる点がいくつか浮かび上がってくる。

 どちらにも共通しているのは、建物の一部分を自分だけで使う意味になる点だ。どんな建物で、「誰が」という具体的な条件は全く関係しない。

 この言葉が当てはまるのは、それなりの規模の建物の一部分を想定したシーンである。くどさを承知の上で重ねて書くが、建物の全体ではない。

 「泊まる人」であれ「住む人」であれ、この言葉の主語となる人物は、何らかの意味で建物全体に関わらざるを得ない状況の中にいるのだ。

 だから、もしも全体との関わりを拒否するなら、その建物から「出る」しかない。ホテルにせよマンションにせよ、「泊まる」こと「住む」ことによって自分以外の人たちと一緒になる世界に関わることを最初から承知していることになる。

 これは、長距離バスに乗るのと同じ状況だといえるかもしれない。目的地まで乗ったら、後は、着くまでの時間をほかの乗客と同じ共通条件に直面しながら過ごすことになる。同じバスで同じ目的地まで同じ条件を共有する形で、ほかの人と否応なく関わりあうわけだ。

 ホテルの場合にも、同じようなことが言えるだろう。

 マンションに住む場合も・・・。
「マンションはホテルと同じ」なんて言わなくてもホントはどうなのか。黙ったままの人がどうなのかはかわかりようがない・・・

 いつも気づいているかどうかに関わりなく、事実上、大抵の人は本音をそのまま表に出したりしないで暮らしている。だから、黙っているときに何を考えているのかは必ずしも明らかではないが、ある程度までわからないころを推測しながら暮らしている。あいまい至極だが、世間という言葉が使われるときには、事実上こんな感じが漂うのは誰にも否定できまい。

 マンションがこういう生活感覚の世界であることも間違いない。

 法律だけやたらに詳しい人が、管理組合では必ずしも説得力を持たない理由も、ここにある。逆に、法律なんぞどうにでも・・・という本音丸出しが管理組合で通用しない理由でもある。

 管理組合が、どことなくあいまいな気分を持つ世界である理由は、たぶん、この点と関わりがあるだろう。
                   ☆
 であるならば、マンションなんてホテルと同じようなものさ・・と思っている人がいても、そういうことを口に出す人はいないのが普通だろう。

 だから、逆に「そんなことを言う人が一人もいない」から「そんなことを考えている人はいない」はずだ・・と、言えるかどうか。

 ホントのところは、わからない。

 「マンションはホテルと同じ」などとはまさか考えていまいと思うのだが、黙ったままの人がみんなそうなのかどうか・・・。

 黙ったままの人が、ホントはどう考えているのか。管理組合の実情の見極めにくさがこの点と大きく関わっていそうな実感は無視できない気がする。

 何も言わないまま、黙っている人は、どう考えているのか。

 名前と顔だけしかわからないあの人たちは、どんな意見を持っているのだろうか。

 名簿には載っていても総会に来たことがないあの人たちの本音はどうなのか。
                   ☆
 黙っている人の考え方がどうなっているのか。手続きさえ揃えば「どうにかなる」可能性が、実は、管理組合組織を支えていることも事実だろう。

 黙ったままの人が多い状態への向き合い方も、手続きによって正当化される。総会で物事を決める手法をあげるまでもいない・・・。
                   ☆
 ホテルで黙ったままでも別にどうということはない。しかし、マンションでは、そうならない。
                   ☆
 黙ったままの状態をどう考えるかという点で、マンションとホテルは、まるで違うのだから。

| muraitadao | コラム | 14:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 32】45年間住んでくると エレベーターでマンションがわかるようになる。住んでいる人の様子も、管理組合のことも、管理会社のことも・・・

マンションのエレベータ―は「人は様々、十人十色」を永遠に実感し続ける空間ではないか

 マンションのエレベーターで、誰かと二人っきりになることがある。ほんの短い時間だが、誰かと密室の時間を共有することになる。

 45年間、住んできた11階。エレベーターに乗る時間はせいぜい1分足らずだから気になるほどの長さではないのだが、同じところに住む人間同士にとって、エレベーターは住み手としてお互いの顔を合わせる場所でもある。

 最上階に住んでいるから、途中階から乗り降りする人の顔ぶれで長年にわたる住み手の様子の一端もわかる。

 いつも見かける人と乗り合わせた後しばらくたって、エレベーターを降りてから「そう言えば、あの人、このごろ見かけないな」という感じで、会うことがなくなった人のことに気づく時もある。逆に、初めて見かけるようになった人の名前が気になって尋ねたりすることや、いつもと違う時間に乗り合わせて久しぶりに会った人もいるし、見慣れない人と一緒になることもたびたびある。

 10戸近い棟で4基あるエレベーターの一つを毎日のように利用してきた実感は、いつも、乗り合わせた人たちの記憶に重なる。

 その記憶は、「いろんな人がいる」という平凡だが、否定しようもない実感と確実につながっていく。
                   ☆
 エレベーターに乗って頭に浮かぶ「いろんな人がいる」という感想は、やがて「いろんな人がいた」という過去の追憶につながっていく。この頃は何かにつけて、マンションに住んできた長い年月を何となく思い起こすことが多い。

「十人十色」の意味が今までと違ってきた。「昨年の十人」は「今年の十人」と違うから「十色」の色合いが違う

 でも「いろんな人がいる」といっても、昨年の「いろんな人」は今年の「いろんな人」とは違う。「いろんな人」の顔ぶれは年とともに変わるのだから。

 いろんな人がいるから、十人十色になる。

 マンションは、まぎれもなく十人十色の世界。

 おまけに、いつも入れ替わる十人十色の世界。

 さらに、去年の十人と今年の十人が変わる世界。

 顔ぶれが変わらなくても、確実に、誰も齢をとる。齢を重ねれば、どうしても人の様子は変わる。

 会った人の様子が変わった分だけ、こちらも様子が変わっているはず。自分で気がつかなくても、たぶん自分の思っている以上に変わっているはず。

 去年の十人は今年の十人と違うし、今年の十人は来年の十人にはならない。
                   ☆
 以前は、「住まい」という言葉や住む人に何となく定型化、もっと言えば画一化されたイメージがあった。説明抜きで「マイホーム」という言葉が説明抜きで同じ光景を描き出せた時代があった。

 パパがいて、ママがいて、ボクがいて・・・というシーンで住宅業界のCMがつくれた。

 ハウスメーカーも、商品のイメージはそうした発想を前提としていたと思う。

 たぶん、そこはマンションも同じだっただろう。

 だから、いま600万戸を超えるマンションの大半にもそんなイメージでできた物件がかなりあるはずだ。

 DKとかDLKなどという言葉も集合住宅の歴史の中で生まれたのだから。

 マイホーム、終の棲家、核家族・・・。

 ある程度の年数がたったマンションでは、そういうイメージが重なる人とそんなことにはまったく無縁な人とが、いま隣り合わせて住んでいる。

 人には、それぞれに年齢相応の住居歴がある。マンションに住む人にも、それぞれ全く異なる住居歴がある。

 しかし、しばらく前まで、めったにそんなことを考えりしなかった。

 だが、この頃は違う。・・・
                   ☆
 エレベーターに乗った時、漠然とそう思うことが多くなってきた。

| muraitadao | コラム | 10:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 31】「相談」という言葉に隠れた情報発信の重い意味に気づいている人はどのくらいいるだろうか

仕事としての「相談」の意味を《道を聞かれて答える》レベルの軽いものと勘違いしてはならない!

 住宅の世界に関わるようになったのは63年前の8月。発足して5年目の住宅金融公庫に入った時からである。戦後10年が過ぎたばかりで430万戸の住宅不足がまだ切実な時代だった。そんな頃から800万戸を超える空き家続出時代まで半世紀以上の歳月の流れを、いろいろな角度からずっと目の当たりに確かめ続けてきたことになる。

 思い出すこと語りたいことは山ほどあるが、やめておく。

 しかし、一つだけ書いておきたい。それは、仕事で何度も「相談」をする部門に携わった時の実感経験だ。

 「相談」は、いろいろなことをかかえた人に面と向き合う仕事である。そういう仕事に何度も関わってくると、いろいろな人の口から様々な話を聞いてきたという確かな実感を記憶することになる。

 当然ながら、相談窓口にやってくる人は誰もが「聞いてほしいこと」をいっぱい抱えている。どうしても聞いてもらわなければ困るからこそ相談窓口に足を運んでくるのは、治したい病気があるから病院に行くのとまったく変わらない。

 その意味で、相談に来る人たちから聞く話は、間違いなく本や新聞・雑誌では決してわからない現実感にあふれるようなことばかりだった。

 どんな分野であれ、相談は、一対一の対話という形で展開する。どっちでもいいような話なら、わざわざ相談したくて足を運んでくるはずがない。切羽詰まって聞いてほしいことがあるからこその対話が相談なのだ。

 だが、大抵は聞く方も聞かれる方も初対面だ。目の前にいるのはどんな人なのか、会ったばかりで名前すらわからない状態でも、相談に乗る方は、目の前の相手がまず《いま、ぶつかっている問題は、いったい何なのか》を口に出して余すところなく語り終えるまでじっと聞いていなければならない。決して、口を挟まずに・・。

 対話の流れが《どうしたらいいか》という方向に向かうのは、すべてその後なのだから。

 聞かれたことによっては答えが見つからない場合も珍しくない。そんな時には、いっしょに答探しをする覚悟がこちらにも必要となる。

 相談でやり取りする言葉が、そのまま質問者の判断の手がかりとなり、その判断の結果はもしかすると長い年月に影を落とすかもしれないが、相談を求められている自分が答えられそうもない・・と気がついても決して逃げてはならない。

 ここからは、一緒に答探しに付き合うという感覚が必要になる。
                   ☆
 住まいの問題の相談は《つくりごとのお話》ではない。儲けて利益を得るための資産として住宅を手に入れようとする人なら、もともと相談などしてこない。損得に目ざとい人は、口に出さず黙ったまま自分で答えを見つける心得があるのだから。

 そこに気づいたのも、相談の実感だった。
                   ☆
 だが、答えが見つからないままの相談であっても、そうした相談が何も役に立たなかったということには決してならない。今でも、そう思う。

 てきぱきしたやり取りとは程遠いボソボソした対話であっても、相談に来た人は、何とかして自分の言葉で少しずつ質問し続けているうちに、当の質問者自身が何となく自分でも気づかぬうちに、頭の中でもやもやとぼんやりしていた考え方がだんだん整理されてくる感じになるからだ。

 その実感がわいてくる程度の時間が経過すると、ほかならぬ相談に答える方も相手に通じる言葉や言い方をつかめてくる。この人にはこんな言い方が向きそうだとか、こう話せばいいのではないか、という感じで。

 そんな過程をたどるうちに、答えが見つかりそうな方向に近づくことはとても多い。
                   ☆
 まず、口に出して《話してみる》ということがどれほど有効か・・。その実感の積み重ねが、少しずつ相談者の力量や努力に支えられる対話の意味を固めていくことがわかったころ、33年間の住宅金融公庫の定年を迎えた。

「相談には人の数だけ答がある」こと、「その答は人に通じる言葉で語られてこそ意味がある」という確信がその後の人生を支えてきてくれた・・

 定年を迎えたとき、この思いはほとんど確信的に固まっていた。

 住宅の問題は、どんな意味であれ、きわめて現実的な問題である。だから、何とかして答えを見つけなければならない問題だ。

 住宅を語るときに言葉と理屈が必要になるのは、そうした意味で答えを確かめる必要があるからだ。当然ながら、その言葉や理屈は誰にでも通じるものでなければならない。

 これは、住宅に関するすべてのことに言えるし。個人であろうと業界人であろうと、役人であろうと学者であろうと、ジャーナリストであろうと全く変わらない。

 住宅について考え、語り、書くことは、どんな意味ででも独りよがりになってはならないのだ。

 自分が発信者になる情報の言葉や理屈は、すべて受け入れられるかどうかで意味が問われる。
                   ☆
 こうしたことを確信的に考え始めたことが「住宅評論家」というクレジットを使うようになったきっかけだった。

| muraitadao | コラム | 12:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える30】「このセミナーは参加者の顔がみんな暗いですね」と記者に質問された30年前の夏の日を思い出す

最初の大規模修繕工事が今にして思えばマンション管理との関わりの始まりだった

 初めて自分のマンションで大規模修繕工事に取り組んだのは、元号が昭和から平成に変わったころだった。もう30年前になる。マンション管理センターはまだ生まれていなかった。

 だから、今でこそ珍しくない大規模修繕工事についての情報が雑誌に出ているわけでもないし、参考書やセミナーなどもまったくない時代だった。

 今と違って書店全盛の時代だったが、それでもマンション管理の本や雑誌は全くなかった。品揃えの多い大型書店でマンション関連の本を探す時には、だいたい「趣味」のコーナーに近いところを探すのがコツだった。「金魚の飼い方入門」と並んでマンションの本が見つかったこともある。

 ついでながら、私自身は、マンション管理に関わるようになる前は「住宅評論家」というクレジットで書いたり話したりする機会が多くなっていた。住宅ローン関連の本などはもう何冊も書いたりしたが、マンションの本となると、どの出版社も書店も《まだまだ、とても、とても・・》という状況だった。

 そんな時期に、私は住宅金融公庫(現・住宅金融支援機構)から当時の大正海上火災保険(現・三井住友海上火災保険)に移った。公庫では、30年以上にわたって天下られてきたのに、今度はわが身自身が天下らされることになった。複雑な気分だったと言わねばならない。

 そんな経緯があったから、大正海上火災に移った時、何かそれなりの意味を見つけたかった。そこで浮かび上がったものの一つが、マンション管理だった。

 まず、マンション管理セミナーを開いた。具体化の段取りを一切合切こしらえた上での提案を会社が取り上げてくれた。よくぞ関心を向けてくれたと、今も感謝している。

 それはそれとして、まだこういうセミナーは少なかったから、都市部でも地方でもかなり参加者が多かった。普段あまり本やセミナーとか講演会に縁がないような人でも目に留まって気になるような現実的なタイトルで、プログラムを考えたのが的中したと思う。説明的で長ったらしいタイトルが多かったのも、それなりに工夫した結果だった。

 そんな内容のセミナーの開催告知の記事を住宅ローン関連原稿で付き合いのあった新聞に出してもらったこともあった。今と違って、この時代は新聞購読者が多かったから、効果は絶大だった。

 実を言うと、プログラムづくりの段階では、具体的なテーマを自分の言葉で語れる講師を選ぶのが大変だった。本で知った観念的な理屈ばかり並べるような人では、リアルな苦労を重ねてきた人たちを前にした説得力を期待できるわけがないと思ったからだ。

 しかし、それを気にしていると、「これぞ」という人がなかなか見つからなくなる。時間も予算も限られた中で実現を急ぎたい事情に困り果てて、結局、自分自身が講師として演壇に立つことが多くなっていった。でも、自分が講師になれば、自分の言葉で、自分の考えていることを語ることができる。

 骨は折れたが、充実感は確かにあった。

 こうして、自分が住むマンションで未経験の不安に耐えながら取り組んだ大規模修繕工事の経験が支えになって、マンション管理との長い関わりが始まった。

セミナーの会場に来た取材記者が言った「ホールの人がみんな暗い顔をしてますね」

 そうした経過でセミナーの情報を流してくれた新聞の中に、セミナーの開催そのものに興味を持ってくれた全国紙があった。マンション管理セミナーがまだ少なかったから、開催自体にニュースバリューがあったのかもしれない。8月のある土曜日、全国紙の記者がホールを訪ねてきた。東京の会場で300人ぐらいの参加者があったと思う。

 この日、私自身が1時間ほどの話をすませて控室に戻ると、取材に来た記者が待っていた。その記者は、セミナー開催の意図や開催までの経過、マンションの現状などをいろいろ聞いた後でこう言った。

 《ずいぶん参加者が来ていますが、会場の様子をみるとみんな一様に深刻な暗い顔をしている気がします。いったい、なぜなんですか?》

 正直、ちょっと驚いた。まさか、こんな質問をされるとは思っていなかったからだ。

 で、率直にこう答えた。

 《当たり前じゃないですか。自分のマンションで困った問題にぶつかって、どこに聞いたらいいかわからない人ばかりが、このホールに足を運んできたんですからね。》

 この取材結果が紙面に出たのかどうか、覚えていない。だが、このやり取りの記憶は30年が過ぎた今も鮮明である。

セミナーの終わった後ホールの入口で待っていた人の話を聞くと・・・

 でも、このときに限らずどのセミナーでも終わった後が大変だった。

 参加者がいなくなって静かになった会場の入口で待っている人にいろいろ聞かれることが何度もあったからだ。

 そういう形で会った人は、いつも初対面だから無理もないとは言うものの、訥々とした話の中身を聞くのが大変だった。何を聞きたいのかを確かめていくと、結局のところ「さきほどの話は、ウチのマンションの場合どう考えたらいいのかわからないので、そこを教えてください」ということになるのが、どこのセミナーでも共通していた。
                   ☆
 こうした経験を重ねるたびにはっきりしてくる実感があった。それは、マンションの管理でぶつかった問題は、結局のところ自分の住むマンションに固有の条件を当てはめて答探しをするしか方法がないという点だ。

 だが、こうは言っても、実際問題となるとなかなか難しい。結局、最後は自分たち自身で結論を出すしかないのだが、決めるときの判断の手がかりになる情報の使い方にはいささかの急所があることだけは知っておく方がいい。今日は、お住まいのマンション向けの急所だけ話しておきますから、その後のことはまた機会を改めて聞いてください・・・。

 大体そんなことを話していくと、ほとんどの人はいくらか落ち着きを取り戻して帰っていった。

 そこから後は、いろいろだった。半分ぐらいの人はそこでおしまいになったが、さらに質問が続くこともあったし、次のセミナーにまたやってくる人もあった。手紙で20本以上の質問を送ってきた人もいた。
                   ☆
 それからは、人の数だけ直面する問題が違うという実感を重ねる日々だった。自分自身が住むマンションで大規模修繕工事をすませて間もない時期だったから、こういう場合の「困り方」を聞くと放っておけぬまま何か語りかけずにはいられなかったというのが正直な実感だった。

 そのときから現在まで、マンション管理について関わりたいという気持ちを支え続けてきたのはこの実感があったからだ。住宅金融公庫の時代に取り組んできた「相談」という方法の意味の重さにまた気がついたのも、この実感がきっかけだった。

| muraitadao | コラム | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 29】自治体情報の情報ネットにコンビニや銭湯があってもマンションがないのはなぜ?

災害のニュースでハザードマップのことを解説する人はこの情報の届き方の実情を知っているのだろうか

 月が変わったが、暑さが日ごとに堪える。先月は猛暑や大雨に加えて、いつもと動き方が違う台風まで重なって大変だった。そんな一か月だったが、災害ニュースの中でハザードマップにふれたものが今も何となく気になっている。

 災害は地域ごとに地形や歴史など固有の状況に対応して起こるという意味で、完全に局地的なものだ。だが、その全体像は自分の狭い感覚ではとらえられない。だから、全体像がわかれば目前で起こっている不安な事態にどこかでつながることが確かめられる。

 天気予報がつねに全国の気象概況から始まって各地方ごとの天気に移り、それから都道府県別、さらに場合によってはエリアごとに細分化されていくほどリアルになって期待値に近づいていくことが、何よりもそれを物語っている。

 災害は誰にとっても「自分が今いる場所」を中心とした狭い事態として受け取られるのだが、それだけに眼前の事態がなぜ起こったのか、これからどうなるのかということが自分一人の感覚でとらえきれない心細さを伴う形で残る。

 でも災害に直面している自分の座標を確かめることができれば、そんな不安を減らせることになる。

 だから、そのことを確かめるための情報があれば、その意味の効果は小さくない。ハザードマップが現実的で有効情報になる理由は、そこにある。

 ・・・などと考えてきてふと気がついたのだが、自分の手もとにあるはずの肝心のハザードマップをどこにしまったか、どうしても思い出せない。

 マンションで数年前に管理会社から全戸に配布されたというはっきりした記憶があるのだが、そのときにどこへしまったのか・・・。

 このマンションで居住歴が長くて親しい人にも聞いてみたが、似たような感じで何となくはっきりしない。

 結局、市のサイトで最新のハザードマップで確かめて、少し落ち着いた。

 全戸配布のハザードマップのことを聞いた人は、わざわざ電話で市役所に聞いてくれたらしい。市役所では今年3月に全戸配布しましたと言っているらしいが、これも心当たりがない。

 いくら齢を重ねていても、この3月のことを思い出せないほどおぼつかない状態ではないから忘れてしまっているはずがないのだが。
                   ☆
 岡山や広島の豪雨災害を伝えるテレビで、専門家と称する人が「ハザードマップをよく見ておくといいですよね」などと話していたのを思い出した。だが、すぐそのあとのシーンで「ハザードマップを見たことがありますか?」と聞かれた被災者が「え?何ですって?ハザードマップなんて、そんなの知らない」と答えているのを見て、やはり・・・と思ったことも。

 こうした資料を作って配布する市役所や区役所の実情や配布資料を受け取る住民の複雑多様な状況を考えれば仕方がないのかもしれないが・・。

 それにしても・・などと脈絡もないことが浮かんでくるまま、また猛暑の夏の午後が過ぎた。

ネットで見るとどこの市や区でもそれなりの説明が出てくるのだが・・。ネットも見ない、新聞もとっていない人はどうするのだろう・・・

 わが身自身のあいまいさを自覚したのがきっかけで、自分の住む市のハザードマップはネットで何とか確かめることができた。

 探し物を見つけたような気分で一息ついたのだが、この機会によその市や区の様子を知りたくなり、いくつかの市や区のサイトをあたってみた。

 少し時間をかけてあちこちのサイトをみて、どこの自治体もハザードマップを含めた災害情報にはそれなりの方法で取り組んでいるらしいことがわかった。

 しかし、同時に、かねてから気になっている点が多くの自治体で共通しているらしいこともわかった。大ざっぱにあげてみると、こうなる。

.好泪曚覆匹鯀枋蠅靴織好織ぅ襪離咼献絅▲訃霾鵑多いのだが、パソコンもスマホも使わない人にはまったく使いようがない。

△修Δ靴真佑砲郎も紙ベースの情報しか手がない。ところが、その配布が新聞折り込みのチラシといっしょになっていると、新聞をとらない人には情報が届かない。

7覿鼻▲好泪曚發覆ぁ▲僖愁灰鵑皀瀬瓠⊃景垢發箸辰討い覆た佑自治体情報配布ネットの盲点になっている。これにはどこも手を焼いているらしい。

 まだいくつもあるのだが、ブログで論文まがいのことを並べても仕方がないからやめておく。

 だが、居住人口が市人口の2%近いマンションに住む一市民としては、上記のような自治体情報配布の苦労にはかなり共感することが多い。

ハザードマップもさりながら「住民向け情報」発信ネットにマンションを含めた再検討が欠かせない!マンション コミュニテイはお念仏にあらず!

 高齢化や非婚化によってどこでもこうした実情が生まれていることは、とてもよくわかる。管理組合が居住者向け情報を発信するときにも、似たような悩みがあるからだ。どういうことを、どういう方法で、どう伝えるかという難しさは全く同じだから。

 でも、マンションは集合住宅だから、物件の実情に対応したそれなりの方法がある。大小新旧の条件で住む人の属性がある程度まとまっているからだ。
                   ☆
 自治体がこの点に目を向けないのは、なぜなのだろう。今のような時代になって新聞を読まない人への情報配布方法に気づいた自治体は様々な場所に配布スポットを作っているが、その内容を見ると駅や郵便局、コンビニ、スーパーはもちろん書店や銭湯などもあって苦労のほどがしのばれる。

 それなのに、自治体の方ではマンションの場合をどの程度に考えているのかが、あまりよくわからない。中には「オートロックマンションの場合は、戸数分の部数を管理人の方にお渡しする場合もございます」などと断る自治体もたまにあるから、たぶん念頭にはあるのだろうが・・・。

 マンションがこれだけ増えてどこでも存在感が大きくなっているのに、何だかピンと来ない。

 ちょっと前に、マンションのコミュニケーションがどうだとかいう議論がかなり盛んだったことがあるが、こういう地域レベルの情報ネットでマンションの位置づけを考えていた人はどこにもいなかったのではあるまいか。

| muraitadao | コラム | 15:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
【44年の実感で「マンションの管理」を考える 28】日本で2番目に小さい市のマンションに住んできた一市民のコミュニテイ実感

この暑さの中で市長選挙。市長がセクハラさえしなければなかったはずの選挙って、いったい・・・

 天気を熟知しているはずの気象庁が、とうとう「災害」並みの認定を打ち出すほど異常な暑さ。その暑さの最中のこの前の日曜日に、市長選挙があった。

 都庁出身の市長がセクハラ批判で急にやめてしまったおかげで、予定外の選挙となった。セクハラなんかしていない・・・と抗弁したようだが、結局、やめる羽目になった。

 何だかあいまいで、事情がさっぱりわからないままの選挙だった。

 市長はやめるという意思表示を確かにしたが、政策上の問題があったということはなかったらしいから、セクハラという言葉だけがやたらに目立つ感じになった。

 わかりにくいことばかりの中ではっきりしていたのは「辞める」ということだけだった。しかし、本当に《辞める》時期はボーナス支給の時期に入ってから・・という話が新聞の地域面に出ていたとかいうことも聞いたが、実際はどうだったのか。一市民のこちらに肝心のことが何もわからないもやもやした不快感が残った。

 日本中で下から二番目に小さいという超ミニシティのローカル選挙だから、結果はすぐ出て、元副市長が当選とわかった。

 何となく着古した洋服にまた浮かない気持ちで袖を通すの似た感じがする。手間、暇、費用をかけて確かめた結果を見て「やれやれ、どうにも、これでは、この先も・・」という気分だった。
                   ☆
 そう言えば、財務省の偉い役人がセクハラで急に辞めたというニュースは、ついこの前だった。このニュースで辞めたのは次官だったという。旧大蔵省の次官がどれほど偉いかは、天下られた時代に余すところなく確かめさせてもらった。思い出したくもない記憶が今もありありと浮かび上がってくる。

 それに比べれば、今度、急に辞めたのはちっぽけな市の市長だ。都庁の役人だったそうだから、地味ながら実務的には手堅い仕事をしていたのだろうと思うが、正直なとろ、よくわからない。

常識のない人間が影響力のある地位につく不可解さが生まれる理由は「非常識欠陥の隠し上手」か「非常識を全く考えていない仕組み」か

 セクハラは「やってはならないこと」という意味で、人間として当たり前の常識である。財務省の次官とか市長でなくても、人間ならすべての人に当てはまる常識中の常識だ。こういう常識を「道徳」という言葉で語るのが好きな人も多いらしいが、それは棚に上げておこう。

 いずれにせよ、そんなわかりきったことが問題になったという事情だけがはっきりしていて、何か政策上の問題があったのかどうかは全く分からないままの選挙だった。なけなしの費用と汗だくのエネルギーを投じた選挙の意味は、今もってさっぱりわからない。

 そんな選挙をやったのは、いったいなぜだったのか。

 大人なら誰でも心得ている常識があるかないかは、表から見ただけではわからないことが多いから、今度のことは予想外で意表をつくように起こったことが、まず一つの理由だろう。まさかあの人があんなことをやるとは・・・、まさかあれほど優秀な人があんなことをするはずがない・・・と、誰もが思ったに違いないし・・。

 この予想外の感じは、財務省次官の場合も市長の場合も変わらない。

 セクハラ、セクハラでやたらにニュースが流れる理由の一つは、たぶん、このまさかにあるだろう。「まさか」の意外性がテレビの視聴率を上げ、週刊誌の売れ行きを伸ばすわけだから。

 では、セクハラのニュースに「意外性」が生まれるのはなぜか。

 簡単に言えば、《あり得ないと思っていたことが実際に起こった》という驚きがあるからだ。そして、それは《あり得ない》と思ってきたこれまでの考え方が大きく揺らぐからだと気がつく。

 財務省の次官なんて偉い人がまさかそんなことを・・といくら思っても、やはりホントにやっていたと見えて、やめてしまった。市長なんてちょっと違う人が、あんな・・・、といくらいぶかっも、やはりはやめてしまった。

 結局、ああいう人は隠し方がうまいんだね、というのがオチだろう。それとも、そんなことはまるで考えていない仕組みのせいだろうか。

 そう言えば「セクハラ罪という罪はないじゃないか」という、もっと偉い人が語った話もニュースで見たな・・。

 わからないことばかりだが、一つだけはっきりしたのは「信用がなくなる」というのはまさにこういう成り行きで生まれるという点だった。聞いたこと、見たことを素直に受け取らず「ホントにそうなのか?」という疑わしさに時間をかけるという形で信用の薄らぎが進んでいく場面を、いま目撃しているのだろうか。

世の中のことはマンションでも必ず起こる。そうであれば、マンションの 生活次元の論議でも・・・

 もう30年ぐらい言い続けてきたことがある。

 生活インフラを共有するマンションでは、世の中で起こることが、すべてそのまま起こる。いいことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、安心なことも怖いことも。

 選挙のたびに政治の姿に向ける信頼性がますます薄くなってきた、この感想はマンション管理の実情にも決して無縁ではあるまい。

 マンションの コミュニケーションがどうだとかいう議論も、こうした信頼度の薄らぎ方が必ず影響するはずではないか。
                   ☆
 ここまで考えてきた日に、日経朝刊の経済教室で《タワーマンションの未来》というテーマが始まったのを知った。

 今日は、まず平山洋介さんの見解をじっくり読んだ。いくつもの感想があるが、それは、このテーマの見解をあと2回分を読んだ上で、次回のブログに書きたい。

| muraitadao | コラム | 21:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
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